第1回 オタクとなろう小説と美の話
たじま
こんにちは
うしお
こんにちは
たじま
この「現代短歌よもやまばなし」は、うしおさんと私、たじまがふたりのトークを公開するブログ企画です。
2月21日にオンライン上の短歌限定即売会「オンライン短歌市」が開催されるということなので、私もなにかやりたいなと思っていて。で、うしおさんといつもしている話はおもしろいと思うので、オンラインイベントまでの期間に喋っているところ公開して、イベントで冊子を発行するというのがちょうどいいんじゃないかと考えました。
うしお
たじまさんとお話してるときそれなりにおもしろい話になっている気はするけど、いざ何を話そうかと考えると迷いますね。
たじま
そうですね。なにがおもしろいのかというと、たぶんわれわれが喋っているときは現代短歌を共通言語として話していて、世界を現代短歌を基準に見てるところがおもしろいんだと思いますが、それがどういうことかは喋らないとわかりにくいですね。はじめに観測範囲の話をしたほうがいいのかな。
うしお
いつも通り近況報告からはじめます?
たじま
そうですね。最近なにか見ましたか?私は『国葬』を見ました。スターリンの国葬のドキュメンタリーの。
うしお
うーん、虚無のほうが多かったかも。国葬行きたかったけど出かける元気もなくて。あんまり虚無なのでツイッターとピクシブのアプリを消しました。
たじま
虚無……。
うしお
ふだん虚無のときはだいたいツイッターかピクシブの二次創作小説とかを読んでるから、それをやめようと思って……。でも結局虚無になってなろう小説を読んでいたのであった。
たじま
だめじゃん。
うしお
そう、だめなんです。
たじま
二次創作小説のプロはすごい。どんどん時間が溶ける。うしおさんの二次創作ジャンル(見る方)の話とかしていいんですか?
うしお
別によいですよ。
たじま
私はふわっと……映画とか…ファンフィクションとか……そういうはなしなら……繊細なジャンルなので…………。
うしお
でも今回たくさんなろう小説を読んで、キャラヘイトという概念(いままで謎でしかなかった)を理解しはじめたかも。
たじま
キャラヘイトという概念というと、作品世界全体で特定のキャラクターが嫌われている雰囲気があったり、キャラクターへの苛立ちが強調されているタイプの作品のことですか?虚無じゃん。
うしお
たぶんそう。あと、オタクファンダムを回遊してると、作者がこのキャラをちゃんと遇してくれてない、という主張を見ることがあって、なんでそういう主張が出てくるのか全然分からなかったのだけどそれの背景もつかめはじめた気がする。
たじま
その主張があるのはわかる……。作者の思想が扱いきれていない!と読者が主張するのは、読者の側がそのキャラクターのいい感じの可能性や伸びしろを読み込んでいて、その想定している可能性を作者がお話にいれてくれないっていう感じかな。
読者の側の読みと作者との関係については、うしおさんが前に言ってた、仮定された作者の意図を読む理論、あれはわりと納得でしたね
うしお
うーん、作者の思想が扱いきれてないやつ(って作者が思想的に未熟でそれがキャラの扱い方に現れてるってことだよね)は、批判するとしたら作者の思想的未熟さであって、作者がわたしの好きなキャラのことをちゃんと扱ってくれてない、とかいう話になるのが謎だったんだよ。オタクファンダムの一部では、作者の思想じゃなくて、推しキャラが良い扱いを受けたか、幸せになったかどうかっていうのが判断軸になってる感じがしてて。
たじま
謎なんだ。謎なことの方がわりと不思議というか、感情的な納得の仕方としては、作品を批評することよりは、人格のある作者を批判することの方が簡単なのでは。
うしお
えっ、そうなの? 人格のある作者を批判することって、具体的にはどういうこと?
たじま
えっと、読者にとっては「作者がキャラクターを嫌い」って思う方が、作者の思想が作品に反映されていることを前提に作者の思想的な部分を読み解くよりも楽なのでは?知らんけど。
うしお
へええ、「作者がキャラクターを嫌い」って発想のほうが私には難しかったんだけどな。あとキャラクターを嫌うって気持ちも割と理解できてなかった(これも今回ようやくどういう概念なのか理解しはじめたけど)。
たじま
うしおさんは作品世界の一部としてキャラクターを認識しているってこと?
うしお
そうそう。
たじま
なるほど。「キャラクターを嫌いになる」のは、作品への没頭が理由にあるのかな。
没頭しているので、作者という存在が透明になり、キャラクターへの好き嫌いがまず語られる。
うしお
たぶん私がオタクやってるのがユーリオンアイスと進撃なもんだからこうなるのかな。どっちもヘイト用のキャラって出てこないじゃん、だから愚かさも失敗も愛すべき人間性の一部であって、それを愛すべき人間性の一部として描けてないんだったら、むしろ作者の技量か人間認識に問題があるでしょって思っている。
たじま
う〜ん、そのヘイト用のキャラって、魅力的な悪役もあるけど、それよりもっと薄っぺらいキャラクターってことですよね。
うしお
オタクアカウントで暮らしてるとあんまり作品世界の一部としてのキャラって発想あたりまえじゃないっぽくてさ。ユーリオンアイスだと作品の本性としてヘイト的な概念は出ないと思うんだけど、進撃だと、どうも特定のキャラクターが役に立ってないとか愚かだってことを真剣に批判したり、作者が特定のキャラクターを大事にしてくれてないってことを言う人がいなくもないみたいで。
たじま
「オタクファンダムと批評」って話をするのもおもしろいですね。わたしはインターネットオタク文化に染まってきたオタクなので、バイアスが強いしオタク文法に慣れてしまっているけど。まあ、特定のキャラクター(ハンジさん)の話はまた回をもうけますか。わたしが進撃を読んでからにしてほしいな。
うしお
わたし短歌やるまで自我なくて、この自我を得たあとオタクをはじめたのでファンダムを見て不思議なきもちになって暮らしてたんだよね。
虚無のあいだ、本好きの下剋上ってやつを読んでて、めちゃ長なのを全部読むぐらいには面白がりつつも、ふつうにヘイト用キャラとかを出してくる作品ではあって、オタクの人たちってこういう感じの価値観と発想だったんだ~って。
たじま
わはは。ヘイト用のキャラクターっていうと強い言葉だけど、作品内の主人公の敵であるキャラクターってこと?
うしお
なんていうか、主人公たちの敵対側にいるキャラクターで、愚かだったり自己中心的だったり容姿が醜かったりそのほか「よくない」属性を与えられて振る舞ってるキャラクター。単なる敵側ってだけじゃなくて、基本的に読者が好きになりうるキャラクターの候補としては作ってないやつってことを言いたかった。
たじま
ふむふむ。『本好きの下剋上』は「本がない世界に転生した本好きの娘が成り上がる」って感じですか?
うしお
そうそう、それをタイトルにするほど主な読みどころかっていうと違う気もするけど(まじめに本好きの下剋上そのもののはなしをするなら階級社会における身ぶりとか大人と子どもってなんぞやって話もあるけどまあそれはいい)。
たじま
なるほど。「本好き」の情熱を理解しないひとは「敵」で、愚かな「一般人」みたいな世界観?
本はひとつのモチーフですが、「ひとの情熱がわからないやつは敵」って感じなのかな。「オタク」ではないひとびとが「オタク」を軽蔑して疎外してくる、という被害妄想的なそういう気持ちがなんとなく共通しているのところはあるかもですね、なろう小説には。
うしお
あっ、まって、本好きはオタクかどうかはぜんぜん関係ない軸です。
ともかく、(たじまさんの話を聞いてると今まで理解できてなかった方がめずらしいのかもだけど、)物語について話をするときに、作者はこのキャラクターをよく遇してくれてないとか、そういう発言が出てくる背景の価値観が分かったというのが今回の私の発見なんですよ。
この作品、やや勧善懲悪的っていうか、悪いことをした・愚かな人物は断罪されるべきだし主人公側の価値判断で断罪できるって価値観があるところがあって。つまり最終的に、善き人物は救われるし、悪しき人物は報いを受ける、みたいな。
たじま
うん?勧善懲悪はそりゃあすっきりするんだろうなと思ってましたけど、「なろう→単純な勧善懲悪的世界観」があると理解したことが「作者がキャラクターを不遇することへの批判」の納得につながるのがいまいちよくわからない。
うしお
えーっとね、たくさん人が出てきて世界像がけっこうある物語でも勧善懲悪とか公正世界仮説とかがけっこう信じられてるんだなってことが分かって勧善懲悪的世界観の強さを再認識したというか。つまり、善なる(or 有能な)キャラクターと悪しき(or 愚かな)キャラクター、救いを受けられることとひどい目に遭うこと、読者が好きになれるキャラクターと読者が嫌いになるキャラクター、っていう軸が全部合致するものとして扱われてるんだ~っていう発見。
たじま
なるほど〜。言われてみれば、それが結びついているのって不思議ですね
うしお
そこ一致すべきだと思ってるんだったら、そりゃあハンジさんが問題を解決できないのはハンジさんが愚かなせいだって発想が生まれたり、逆にハンジさんが良い目を見られないことに傷つきました(作者は善き登場人物をちゃんと幸せにするべきだ)って発想が生まれたりするよね、と。
たじま
かなり単純な世界観……。世界が本当は勧善懲悪的であるはずなのにって思うのは、なに……?
うしお
公正世界仮説は現実世界においても存在するもの(というかそもそも現実世界についての話)なのでそれなりに分からなくもないけど、オタクとして物語を楽しむならそれだけだとちょっとつまんなくない?って思うんだけどな。
たじま
わたしは世界が本当は勧善懲悪的なはずなのにそうではない物語を受け止められないのはオタク的なナイーヴさなのかなと思う……。
うしお
それもっと詳しく教えて。わたしは逆に、オタクとしていろんな物語を楽しむっていうルートを通らないと世界は勧善懲悪じゃないって事実を受け入れがたかったと思っており。
気狂いピエロとかダンサー・イン・ザ・ダークとか、これはまだ大学生で情緒も育ってなかったときに見たんだけど、ぜんぜん勧善懲悪じゃないけど作品のパワーで説得されてしまって。人間は幸せになるために生きてるわけではないってふうに考えるのは現実世界ラインだけで人生をやってたらどうも難しくない?
たじま
勧善懲悪を望むのって判官贔屓というか、感情的に同情できる方が勝ってほしい気持ちで、強い(と思っている)ほかのひとびとに比べて、オタクである自分は弱く、疎外されているという被害者意識があり、「弱い我々が不当に虐げられている」から「不当な強者に勝利する」話は好かれやすいし、いわゆるなろう小説は、作品がそういう欲望を直接解消してくれるんじゃないのかな。
オタクとルサンチマンの結びつきってオタクカルチャーの話でよく出てくる印象がある。オタクとは男性オタクのことであるっていうのが前提にある気もするけど。
うしお
なるほどねえ、ルサンチマンのことは正直忘れてました、そういえばそういうのもありましたね。
たじま
ルサンチマンの話あるよお。
うしお
わたしは本気でオタクを始めるのかなり遅かったので時代的なこともあると思う。オタクって単に何かしらのコンテンツにものすごく没入している人ぐらいで言ってた。
たじま
言葉はそうだけど、「オタク文化」の流れとしてルサンチマン解消ポルノが好きっていうのはあるんだろうなという理解をしてたんですが、いわれてみればこういうのどこからはじまってるんでしょうね。
うしお
被害者意識かあ、たしかになろう系でも二次でも嫌われものの需要ってけっこうあるよね。さいしょ主人公が虐待されたり嫌われたりしているところからスタートして、でも主人公は有能なのでor白馬の王子様的な人に愛されたのでハッピーエンドです、みたいなやつ。
たじま
ありそ〜。かわいそうってことがすでに気持ちいいんじゃないのかな。
でもべつに、オタク文化に浸ることで勧善懲悪的世界観とルサンチマンの解消を身につけるわけではないはずで、欲望としてふつうのことなのかな……。オタクのルサンチマンって話はあるけど、よく考えたらルサンチマンはべつにオタクに限らない。
うしお
うん、オタクのルサンチマンのことは本当に忘れていたので、単にチープな物語というものはオタク文化関係なくそういうものなのかと思ってた。
チープだな~と思いつつ、虚無のときのわたしなんでも読むのでよく見る分だけよく読む。
たじま
虚無の時のうしおさんに推し作品を送ればよかったのか……?
うしお
えっとね、虚無のときのわたし映像見る環境を立ち上げる元気はなくて、漫画もそんなに元気なくて、文学性も思想性もない文字列が一番読める。
たじま
気合のいる作品はだめですか。では今回はうしおさんがルサンチマンのことを思い出した回ですね。
べつになろう小説じゃないんですけど、「ハリー・ポッターと合理主義の方法」がよかったです
うしお
じゃあ次の虚無のとき思い出したら読みます。
たじま
「ハリー・ポッターと合理主義の方法」は合理的思考をする科学者であるポッター少年の話で、科学的思考をしないひとを啓蒙すべき人々として見るところがちょっとなろうと近い。作中でその傲慢さをちゃんとともだちに打ち砕かれるのでとてもよいです。
うしお
あっ、それはえらい。主人公が優秀なので世界を変える・好かれるみたいなチープな感情的よろこびって、基本的に主人公側の価値観に異議は挟まれないじゃん。チープだからしょうがないんだけど。
たじま
めちゃくちゃおもしろいんですよ。マルフォイ少年の貴族的な血統主義を、合理的な思考にもとづいて一緒に遺伝を調査することでマルフォイ少年自身の手で打ち砕かせてしまうシーンはまじですごい。これまで友情を築いてきたハリーとドラコが、「こんな考え方を植え付けられてしまったらもうもどれないじゃないか、なんてことをしてくれたんだ!」って喧嘩するの。
主人公がチートという快感が、同時にその傲慢さによって本当に人を傷つけてしまった致命的なシーンになるんです。いちばんいいとこをべらべら言っちゃうの、オタクムーブでした……。
うしお
いや別にいいと思うけど。オタクのはなしをするならまだ他にいくつか論点っていうか気になってたことがあって、オタクってほんとうにキャラクターの見た目好きなんだなあっていう
たじま
そういえばそうですね、なんかオタクってアニメがふつうなのかな。わたしは小説とか映画とかばっかりでいまだにアニメっぽいジャンルにハマったことあんまない……。
うしお
二次創作小説とか、本好きとかもそうだったんだけど、特に作品上必要性がなさそうなのにキャラクターの見た目をすごい描写するんだよね。普通の小説でも私が興味なくて読み飛ばしてただけだったのかな?
たじま
でもそれって、一般的に絵の方が好まれるってことでは?小説より漫画が売れるし、漫画よりアニメが売れる。絵がある方がわかりやすい。
うしお
あととにかく主人公側の容姿が美であるということにされるのに辟易している。
たじま
美!ルッキズムはそうかもね。
うしお
でもさあ、小説って絵がつけられるまでは絵ないじゃん。わたしそんなにキャラクター設定みたいな外見描写をされても頭の中で想像する気が皆無でなんか言うてるわみたいな気分になっている。
たじま
そのへんルッキズムとしていいのか、ドストエフスキーが主人公はとびきりの美青年にしたりセクシーな美青年にして重要な少年は美少年にするみたいなことなのかよくわからないけど。
ドストエフスキーのやっているのは役割の重要度を象徴的に見た目に含ませるってことだと思うと、それもふくめてルッキズムといえるのかな。
うしお
じゃあ単に外見描写がもっと上手ければ別に気にならないと言うだけの話なのかな。
たじま
へただったのかな……。
うしお
ルッキズムと関連はなくもないと思うが、物語においてキャラクターの属性が大事だというのはわかる。名前とかも大事じゃん。
たじま
物語のなかの役割ってことですもんね。
うしお
感受体のおどりというおれが大好きな小説があるのですが、人名ほんとうに最高なんですよ。月白、毬犬(まりーぬ)、霧根、走井(はしりー)、夕皿(ゆーさら)
たじま
はい。短歌の話に戻すけど、短歌基本的にはキャラクターを要素にあんまりふくまないから絵にしづらそうですよね。
このまえ『滑走路』が映画化してましたけど、ひぇ〜って思って映画は見てない。
うしお
ビッグイシュー買ったので映画化という話は聞いていたが、まあキャラクター要素は含まないよねえ。
短歌と映画だったら『田園に死す』がめちゃいいよ。
たじま
歌集から具体的な脚本を立ち上げる作業、すごい。いやでも、田園はキャラクターでは、ない……?
うしお
いや、べつに短歌の使い方が上手いとかそういうことでもないか。いい映画だったし、寺山的(しらんけど)だったし、短歌もちょっと出てた、って感じ。
たじま
へえ〜〜。短歌ちょっとでてくるんだ。
うしお
青森と子供時代と母親と、、、って感じで、ちょっとホドロフスキーみあったし。
たじま
やった〜!ホドロフスキー!
うしお
寺山じゃん!!!(しらんけど)、となった。
たじま
寺山のこと、よくしらない……。
うしお
私も知らないけど、青森と子供時代と母親とから逃れられない感じとか、虚実混ざりつつ私小説的振り返りになってるところとか。
たじま
青森、たいへんそ〜。
うしお
書を捨てよ町へ出ようも見て、これは音楽や展開がけっこうウテナでおおと思ったんだけど、倫理的におすすめできない。
たじま
寺山修司への感情があんまりないのでふうんと思ってたんですが、ちゃんと見よかな……。
短歌を持ち出したのは、短歌って顔の話をしづらいよなって思って。二次創作短歌でも顔の話はしづらい。
うしお
田園は推したいですね。
顔とか外見の話、するのはちょっと文字数が足りないのかな? その話だけで一首にする意味もあんまり私にはわかんないし。
たじま
たしかに、美醜の話って物語にはキャラの要素として必要だけど、短歌は物語をそこまでやらないからいらないのか?
うしお
うん、そうおもう。あとそこを一首の中身として切り出しちゃったらまじでルッキズムの議論をするしか道がなくならない?
たじま
ひとの顔を観察する歌とかはありそうだけど、ひとの顔を描写するのって意味が乗りすぎるのかな。
そう思うと、そもそもわれわれの社会がひとの顔に意味をもちすぎているということ?
うしお
われわれの社会、そうなのかな。あんま考えたことがなかったのでよくわからない。
たじま
よくわからなくなってきた。物語に登場人物の見た目が必要なのは、そもそも社会に人間の見た目が必要だからだっけ……。
人間に見た目がある!
うしお
オタクの書くものにいっぱい外見描写があるからみんな外見に関心があるんだ~って思ったのが近年の発見だったけど、オタクが描写する記号的外見と、生きている人間が外見をちゃんとしようとするとか特定の外見を好きだったり好きじゃなかったりするのと、ってまったく別のもののように感じられている。記号的すぎて現実と一致させられてないだけなのかも。
たじま
そりゃそうだ。人間に見た目があるというのは原理に戻り過ぎた。
記号的外見って、この顔は主人公顔みたいなやつですよね。
うしお
えっ、そういう? 髪の色は何色とか肌が白いとかなんかそういうオタクが好きそうな概念かと。
たじま
あっそういうやつか。あ〜〜〜なろう、いっぱいありそう。
うしお
そうなんだよ。全部読み飛ばしてるが。
たじま
おおまかには主人公顔と同じ話では。ツインテール少女的なキャラ萌え用の記号がたくさんある。
うしお
ふむふむ。
たじま
見た目をキャラクター属性と捉えて性格にまで反映させるのは、見た目にまつわる文脈とテンプレートがありすぎるのかな。そうやって見た目と性格をむすびつけることをすごく好きなのはなんなんでしょうね。
でも、わたしだって登場人物がカン・ドンウォンの顔をしていたら好きになっちゃうしな〜。
うしお
わたしはこのあたりの認識精度がだいぶ荒くて、美・善・すごい↔醜・悪・おろか、みたいなのはつまんないからやめようよ~みたいな気持ちしかない。現実の役者さん入ってくるとわたしの把握を超えちゃうよ、、美の基準がわからん。
たじま
美イコール善っていう方式、真善美だしナチュラルに受け入れてたけどまあルッキズムか。それはわかってるけど受け入れちゃうのはあんまりよくないのかなあ。
うしお
ていうか作品批評の観点でいうと、美だと善きものになるんだったらもはや別に美って価値観を持ち出す意味もないじゃん、というような。だって結局それは善きものであることの同語反復にしかなってないし。
まあこれは文字列を読むからそうなのであって、漫画とか映画とかなら美しいものが表象されているということそのことが価値を帯びるというのはわからんでもない。いやでも、漫画だとめちゃめちゃ作画がうまくない限りは、むしろ美じゃない特徴を備えたキャラ造形をするほうが手間な気もするし、漫画のキャラクターの美醜ってなぞ。よく考えたらわたし、言語的に美かどうか示しといてもらえないと、絵や写真だけ見せられて判断しろって言われても自信ないわ。
たじま
美に載せられるものを「善」ってまとめたけど、見た目には物語のなかでのキャラクター性やそのほかのいろんな意味が乗るから意味あるんじゃないですか?
なろう小説にかぎっていえば、アニメ的な世界観をもとにしてるから見た目の属性の描写がいっぱいあるのはわかる。同語反復だからいらないというのもちょっと乱暴なような気がする。
写真を見て美かどうかは、まあわからないし、美への意識は構築されたものなんだろうな……。
でも、美をそうであるものとして意味づけることがそもそも演出ってことでは?
うしお
単にルッキズムに乗っかってる以上のなんの作用も果たしてないじゃん、みたいな気持ちからこう思っちゃうんだけど、演出の価値観が気に入らないだけなのかな。
たじま
この作品のこの場面でこのキャラクターが美しいのは、顔の造作によらないと思う。美しく見える瞬間には意味がある。
うしお
ああ、キャラの設定というのではなく、場面においてというのならわかる。でもそれ漫画や映画ならともかく、小説でやるのはむずかしそうやね。
たじま
ええと、お話のなかで「美しい」と示すことが、「善い」その他の意味を持つってことと、キャラクターの見た目の記号的な描写が多いことは、ひとの顔の見た目に意味を持たせるという点ではおなじかもしれないけど、キャラクターの見た目には形骸的なものが流通している、ってことになるのかな?
うしお
そういう感じ。ていうか場面において美を示すみたいなのって、虚無のとき読むようなものだとそれほど見ない気がする。
たじま
たしかに。虚無の時は記号で読めるものばかりほしい。喉越しがいいので。
うしお
そうなっちゃう。
たじま
よく考えたら私は、美のはなしをいっぱいしてるはずの『判断力批判』はまともに取り組まずに通りすぎちゃったんですよね。
うしお
わたしはそもそも通ってもないよ、美のはなしは作品の芸術的善し悪しとは別のよくわからないものの箱に入れてる。でも分析美学入門買っちゃったので読もうかなと思ってる。「仮構された作者の意図」とかも分析美学まわりの議論だったはず。
たじま
キャラクターの要素としての見た目については、『テヅカ・イズ・デッド』が記号的なものである「キャラ」の定義付けをしていた気がしますが、かなりむかしに見ただけなのでもうなにも覚えてない。
仮想的作者の意図主義はその通りじゃんと思ってるし、そういう批評理論っぽい話を大学の時にちゃんと通っておけばよかったな〜と思いますね。
うしお
わたしも批評理論みたいなのは一回もやらなかったからなあ、、
たじま
さきに実践をしてしまったから……歌会で……。
うしお
意図、いまゼミで、グライス以後の語用論は意味を話者の意図によって定義してるから、作品解釈はそのまま扱えないよね、哲学的にどうしましょう、という感じの話(をやればいいのでは)という話をしてる。思ったよりどんどん言語哲学よりになってきたよ。
たじま
作品解釈はそのまま扱えないっていうのはどういうことですか?
うしお
つまり語用論がベースにしている言語哲学的前提が、文の意味を話者の意図によって定義するという枠組みを使ってるから、話者の意図なんて知りませんがっていう作品解釈は、この枠組においては「意味」の定義から外れてることになってしまうっていう感じ。もちろんそれはちょっと納得し難いので言語哲学的背景から考え直しましょうねっていうのがこれからの予定になるのかな?たぶん。けっきょく私の個人的言語観を話すために短歌の話をせざるを得なくて、修論でも短歌を持ち出さざるをえなくなってしまうかもしれない、やだよう、という状況でもあるのだが、、、
たじま
うしおさんは作品解釈を扱いたいから作品解釈を持ち出してるんですか?
うしお
うーん、そうでもないかも。意図ベースで意味を定義するのが気に入ってなくて、(あと命題を前提にしてる議論があったりするのも気に入ってなくて)、そこを掘り下げようとすると作品解釈の話になってしまったというか。
たじま
そもそも意図を前提にしてることに異論があるから、発話者の意図説で扱えないものには作品解釈がありますってことか。
うしお
そうそう。当初は命題と真理条件のほうが気に入ってなくて、そこから先生と話しはじめたんだけど、理論的に掘り下げるならまず意図のことを真面目に考えなきゃねという風になってきて、、まあいろいろ検討途上です。
たじま
なるほど〜。また学問的進捗の話も聞かせてください。
うしお
ゼミ、消化途中なのでうまく言語化できるかわかんないけど。歌会みたいだよなんか。
たじま
歌人はぜんぶ歌会にしがち。ではこのへんでお時間ということで。
うしお
おつかれさまでした。
たじま
おつかれさまでした。