現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

第2回 『広い世界と2や8や7』の話

 

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うしお 
こんばんは

たじま 
こんばんは

うしお 
前回分の文章を直していて気づいたんですが、

たじま 
はい

うしお 
わたしたちオンライン短歌市に出たいと思っていたわけなので短歌の話をしなきゃいけないですね。

たじま 
あ〜〜〜。そういえばそうですね。短歌の話をしましょう。

うしお 
たじまさんの短歌的近況はいかがですか?

たじま 
2020年、私たちの先輩にあたる歌人の歌集がたくさん出版されましたが、最近気になる短歌の話題といえばやっぱり永井祐歌集ですね。

うしお 
われわれの先輩って導入したのに直接の先輩ではなかった永井祐の話になったのウケてる。

たじま 
しまった。話のまくらにしちゃった………。先輩というのは、笠木さん、阿波野さん、榊原さんのことですが、一番最近なのが永井祐歌集だったので……。

うしお 
わかるよ。あと学生短歌会の範囲で言えば川野さんも先輩の気持ち。

たじま 
わかる。『予言』も先輩感ある。

うしお 
わかる、オンラインで歌会をご一緒するからなのかな。

たじま 
年代的に先輩だからね……。あと山階さん、吉田恭大さんも先輩。

うしお 
範囲を2020年より遠くにしちゃうとどんどん広がるのでは。

たじま 
たしかに。2020年がぼんやりしていたので範囲もぼんやりしちゃった。
先輩方の話はまたしますが、『広い世界と2や8や7』、読みましたか?

うしお 
読みました読みました。

たじま 
『広い世界と2や8や7』、略して2や8や7、よかったです。いや、よかったというのもなんか悔しいんですが。

うしお 
くやしいんだ。

たじま 
実は、初読のときにはひさびさに歌集を読むのもあって、あんまりよくわかんなかったんですよね。永井祐さんのこれまでやってきていることを知っているし、なにより自分もおおむね口語のリアリズムの流れなこともあって、だいたいなにをやろうとしているのかはわかるんだけど、そうは言っても全部の歌が同じように見えてしまった。そんなにすごいかなあ、みたいな。

うしお 
そうだったんだ、わたしは最初からチューニングが合ってて、なんかすごいのが来たなって思って読んでた。

たじま 
いいな。私は初読のときは、すごいぞ、というテンションにあんまりならなかった。都市で生きる主観の機微が口語の微妙なところに立ち現れるんですね、そうですか、ってなったんだけど、二回目にちゃんと読むとあ〜〜〜すごいな〜〜太刀打ちできね〜〜〜くやしい〜〜みたいな気持ちにはなりました。

うしお 
確かにこれがすごいぞって思えている事態もちょっとふしぎな現象なのかもしれない。同じように見えるという気持ちが生まれることも想像に難くないですね。

たじま 
最初にすごいぞってならなかったのは私の短歌チューニングがオフになっているときだからだったんだけど、同時に、短歌がよくわからなくなってるってことかなってちょっと不安になりましたね。
ま、それはそれで、私が勝手に作り出した「みんなと同じようにわからなきゃ」っていうプレッシャーを真に受けるのはよろしくないとは思って、とりあえずは放置してまた読み直そうと思っててたところ、読んだらよかったのでよかったです。
でも、「最近歌集を読みはじめました」というようなひとにいったいどうやってこのすごいな〜〜を伝えればいいのかよくわからない。
うしおさんのすごいぞ、どの辺でしたか?

うしお 
うーん、待ってね、2や8や7をどこから話せばいいかな……。
ちょっと遠くからはじめるけど、こないだ短歌じゃない人に短歌ってこんな感じなんですよって話をする機会があって、そういうときに説明材料として引用しやすい短歌って、景から心情を読み取らせるやつとか、比喩による認識の更新とか、詩的飛躍によって感情の切実さを担保してますよとか、そういうレトリック上の読みどころがここですってわかりやすいやつになるじゃないですか。

たじま 
短歌の中にある技術を説明するってことですね。

うしお 
「都市で生きる主観の機微が口語の微妙なところに立ち現れるんですね」って言えちゃうやつ、そこそこ作品が蓄積されてきていっぱいあると思うんですが、このラインの歌たち、さいきんどんどん読みどころとしてのレトリックが説明しづらい流れになっていってない?って、2や8や7を読んで思ったんです。

たじま 
口語・都市・機微を読むタイプの短歌におけるレトリックの現状として?

うしお 
うん。2や8や7読んでの思い付きだから全部に敷衍できるか分からないんだけど。技術がないわけじゃない、すっと読ませるためのいろんな工夫みたいなのは凝らされてるはずなんだけど、その技術の内実を分析をしなくても歌のよさを鑑賞できるじゃん。2や8や7すごいぞって即思ったけど、どこがすごいのかけっこう言いづらい。

たじま 
技術があるなと思っても、技術の存在に気がつかなくてもすごいってことと、技術に気がつきながらも技術をぱっと分析できないってちょっと違うような気がする。後者はすごいとはまたちがうんじゃないかみたいな。単にこちらの分析能力の話になるよね。

うしお 
ああ、こういう話をしてしまうのは、今までわたしが長い間情緒がぜんぜんない状態で暮らしてきていて、すごいって思うことと技術的になにが起きてるか考えるということがけっこう一緒だったということがあるのかもしれない。

たじま 
情緒なかった。

うしお 
なかったの。感受性もなかった。

たじま 
ええと、私はどちらかと言えば、技術の洗練より、よくわからないけどすごくて、技術が分かってもすごいのってすごいよね、ということをいいたかったんですが……。

うしお 
それは、つまり、意図がぜんぶ分かってしまうとつまんなくなるときもあるよねってこと? もちろん、すごいって思うことと技術的に分析可能であることが別であることは理解してるつもりなんですが、技術的な分析のほうを通ってはじめて情緒に回り込めることがわたしの経験上は多くて、で、そういう種類の人間がいるということをよく理解しているために、すごいと思えた時はなにがすごかったのかできれば分析してあげられたらいいなって思うの。

たじま 
私は「よくわからないけどすごい」ものは技術分析ができないからわからないときもあるけど、魂の迫力、みたいなもののすごさを説明するのに言葉が追いついていない(将来的に技術として分析されうるかもしれないが)ときもあるんじゃないかと思っていて、できれば知らないすごさに圧倒されたいのかもしれない。
分析できなくても数十年後にこういうものがありましたと記録があればいいかな……われわれもできる限りのことをしますが、できなくてもまたそこですごいと思ったひとががんばって分析してくれるでしょう……完……。

うしお 
「よくわからないけどすごい」という体験、わたしもたくさん作品を通ることでだんだんそういう感受の回路ができてきた感じがするし、意味わからんけどさいこーってなって打ちのめされるのは好き。でも自分が分かってない側の人間だったときに、魂の迫力がすごいですって言われてもあんまりうれしくないし、「人間が描けている」的な話とかもそうだけど、この手の評語ってずいぶん恣意的に使われるから、そういうものを求めつつも警戒しちゃうというか。

たじま 
それはそうですね。魂の話するのうさんくさくてやだもん。魂とかうるせ〜ってきもちになる。

うしお 
2や8や7に戻るとさ、ふつうこの程度派手な出来事・感情があったらそれが短歌になりますってラインがあるとしたら、いままでそのラインよりも手前に留まっていたから認識の上で焦点化されてなかったことたちが言語化されてることがうれしいのかなあ、ということを考えたりしている。
掬われしのち金魚は濡れるとかの、派手に世界の見え方を書き換えようとする歌じゃないけど、これもある意味でわれわれが(短歌的に抒情するような大きなことは)何もないと思ってたところに、それが何もない状態であることを認めつつ何もない様子を見せてくれてるっていうか。
これって写生ってやつなんじゃないの!?

たじま 
写生だ〜〜〜!!!
観察を通してものに入り込んで微細ななにかを見つけ出すのって、短歌で取り上げることをどこまで細かくしていき、かつ抒情していけるかって話になるような気がするけど、そういうどんどん細かくなっていくルートじゃないのが2や8や7のような気がしますね。
ものの観察じゃなくて、ものを観察したりしなかったりする認識の方を掬い上げる感じですよね。

うしお 
そうそう、微細な細部に注目して”リアリティ”を担保するってやつじゃないんだよね。

たじま 
「言われてみればそうなっているものがある」ではなく、「そう言われてみればそういう認識がある」ような気がするのが2や8や7。
たぶん、ものの細部を示されたら、ものが現に短歌で示された通りであるっていうことは読者の側でもそれなりに確認できて、リアリティになるのかも。でも認識だと、そんな気がする、なんとなくわかる、くらいになるのかな。<仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす>とか。

うしお 
これってさあ、最近の口語都市詠への評語としてはやり?の「認識を再現する」ってやつなのかなあ? どう思う? わたしこの評語ときどきよく分かんないんだよね。

たじま 
流行り定義がふわっとしてるけど、まああるよね、そういう評。でも、「認識を再現する」って「ほんまか?」という気もする。うしおさんのよくわかんないとは?

うしお 
流行ってた印象だったから言ってみたものの、ちょっと、総合誌追えてないから自信なくて……。
2や8や7についてなら、認識が再現されてるって言われても分からなくはないんだけど、認識の再現って言われるとき、認識がリアルに再現されていればいるほど偉いみたいな前提を感じることがあって、「ほんまか?」と思うんだよ。

たじま 
私の「ほんまか?」は、その再現されたと思っている認識はあなたの(読者の)ものだったんですか? 歌に再現させられてる認識ではなく? という「ほんまか?」なんですが。
<仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす>って言われたから、自分にも「仕事してするどくなった感覚」があり、それを「レールの線」に合わせたことがあるような気がしていて、そう言われてみたらある! と思っているかもしれないけど、言われたからその認識ができたんちゃうか、という微妙な座りの悪さ。

うしお 
そっちの「ほんまか?」なのね、それも分かるな。
どこでだったか自信ないんだけど阿波野さんの歌にも認識の話が言われていたことがあったと思って、これは2や8や7に言われるよりももっと腑に落ちなくて、この歌って認識を再現することを目的に作られてる? むしろこの単語を入れたかったとかこの韻律でつくりたかったとか、短歌的な落としどころをちょっとだけ裏切りたかったとか、そういうことに駆動されてた面が大きいんじゃないの? って感じでもぞもぞしちゃうんだよね。

たじま 
結果として認識の再現と受け取られているけど、評価するところやされたそうなところはもっと別にあるだろうってこと?
阿波野さんの歌だと阿波野さんがなにをしようとしてるか本人談でなんとなく知ってしまっているという先輩後輩トークにもなりますが。

うしお 
ビギナーズラックについてはそう思ってる。あ、これ後輩トークになるのかなあ、まあ歌を読んで、この歌のころこんな話してたよなとかいろいろ思い出しちゃったりしてあれなんだけど、阿波野さんが認識を書きたいと思ってるかどうかは正直知らない。
でも2や8や7にしろビギナーズラックにしろ、短歌的にやりやすい語彙・構文・韻律・主題はこのあたりですってエリアから外れるという試みをやるってことは、そういう短歌的なものからはみ出す”リアルな認識”を提示してるってことになるのかなあ。
まあでも私が阿波野さんの歌とめちゃめちゃ近くで暮らしてきて今の読みになってることを考えるに、永井さんの歌とめちゃめちゃ近くで暮らしてきた人は287にもまた別の読みどころや技術的分析を見出しているのかもしれない。

たじま 
まあ本人が話すことを聞いて知っていることは(とても関連が深いとは言え)歌とはまた別の話なのでひとまず置いておきましょうか……。永井さんの歌をリアルタイムで歌会で見ていたひととかね、そうでしょうね。私も『ビギナーズラック』のこと、まじでわからないんですよね。先輩の歌だなあという感情。ラの話すると同窓会的にもりあがっちゃう。

うしお 
ここまで永井さんの歌、じゃなくて2や8や7って書くことのほうが多かったのは、287を読んではじめて言語化ラインの一歩手前が歌になってるのね、って理解できたからで、ビギナーズラックを歌集として読んだら(近すぎてまだできない)また感触がかわる可能性もあるかもと思う。

たじま 
レトリックの面で短歌の既存のレトリックからはみ出す試みをしようとしたら、結果として認識がとても微妙なかたちであらわれて、結果を受け取る側としては、それを微妙な認識というものとして受け取る、みたいなことなのかな。

うしお 
これってさっきたじまさんが言った「ほんまか?」の話になるっていうか、従来の短歌的エリアからはみ出たものを読者が読解したというそのことによって、そのはみだしに”リアルな認識”という名前がつくってことだよね。

たじま 
つまり、作者としては既存の短歌とはすこし違う技術を使ってみたところ、既存の短歌とは違った認識の感じが生まれて、読者はその短歌を、新しくリアルな認識を表現するために技術が使われていると思う、ということになっている?
だから、もとから認識再現度の最大化を目的にしているわけではないけど、技術開拓をしていくと結果としてそういうことになるのかな。

うしお 
そういう感じのことが言いたかった、結果が目的に取り違えられてるのでは、みたいな。287は認識の提示をしようとしてるって言われることには、読み味としてけっこう納得いくんだけど。まあでも作者の目的意識なんか分からんけどね。

たじま 
まあね。作者の目的意識でちょっと思い出した余談なんですが、奥村晃作さんのTweetがすごいんですよ。「お互いに愛し合っているから」って。

うしお 
お互いに愛し合っているから!!!!

たじま 
そのとおりですね………………。

うしお 
あと、さっき写生じゃんって話をしたけど、なんか、287にチューニングを合わせた状態で近代短歌とかアララギを読んでいくとけっこういい感じに波長があうんじゃないか? ということを考えたりもした。

たじま 
認識〜って気持ちで読むと近代短歌も認識の歌として読めるじゃんってこと? 佐藤佐太郎がわりと認識と主観をやるぞ! って感じなのはわかる。

うしお 
認識っていうか、レトリックのあらわにされない感じの感じが
ほむほむが、酸欠世界の話をしていたときに、現代社会は酸素が足りてないから(かんたんに社会認識と作品を結びつけちゃう手つきになんやねんとは思うが)現代に豊かな世界を描くためには細部への注目というレトリックによってリアリティを担保しなきゃいけないという話と、それとの対比で、むかしは世界の酸素が豊かだったから(なんやねん)そういうあらわなレトリックなしで豊かな世界が描けていたんだよ、という話をしていて、社会認識はともかくも、レトリックを顕わにするというのではないやり方で作品を成立させているというところに、287とむかしの写生への共通点を見てしまうというか。

たじま 
現代社会の物質的豊かさに反するこころの余裕のなさ」みたいな世界観、そういえばありましたね。むかしのって、つまり文明とか茂吉とかが写生ってことを言い始めたときのってことでいいのかな。レトリックなしかというとそうでもないだろうとはおもうけど、作為的なレトリックをあらわにしない感じはありますね。
レトリックを駆使しない、難しい言い方をしないでも通じる歌をつくっていく方向なのかな。

うしお 
そう、なんだかんだちゃんと読めてない・読んでもピンとこずに流れてしまった歌集が多いから、287にのってるいまこそ近代短歌について考えなおすときでは? と思いついたり(思いついただけだが)してる。

たじま 
文明とか茂吉とかね……なんだかんだちゃんと読んでないままですね……。

うしお 
いやあ、でもとりあえず”レトリック”って呼んできた概念のことも正直よくわかんないのよね。
実作者的実感として、自分がやってることがどの程度レトリックにあたるのかもよく分かんなくて、何にせよなんとなくいい感じになるところまで推敲するってことには変わりないじゃん。でもこのなんとなくここって自分が思うあたりといわゆるレトリックとが同じものとはあんまり思えないし。

たじま 
自分で作るときは、派手なことしようとするとレトリックになるってことはわかる。絵で言うと、俯瞰にしてみたり、切り取り方を工夫したり、がんばって構図を考えるみたいなことを短歌でがんばるとレトリックになるんですよ。そういうがんばりをする負荷があるとレトリックになるんじゃないのかな。たとえたら余計感覚的になっちゃった。

うしお 
ほむほむは昔の歌は〈構文〉(=高度な個人技)がなくても豊かな空気感を持っている(それは世界の空気が豊かだったからだというのにわたしは同意しないが)とか吉川さんの歌は自然っぽいけど〈構文〉によって支えられてるとか、前衛短歌の手法が時代と共に単なる道具になってしまったとかの話もしていて。
そのあたりの材料から勝手に整理と図式化を試みるなら、レトリックとか手法よりも先に作品が出てきて、それが時代と共に何をやったらどんな効果が生まれるのかが分析されてだんだんレトリックという道具として使われるようになった、とか?

たじま 
最初はレトリックや技術や道具ではなかったものが、分析されることによって効果を伴う道具になったってこと?

うしお 
そんなかんじ。

たじま 
最初は天然の産物で、養殖されていくレトリックくん……ハッピーバースデーだ!

うしお 
そう、口語の写生ハッピーバースデー

たじま 
ハッピーバースデーならおめでたくていいですね。道具化というと非倫理的な感じもありますが。たとえにするとどっちにも行けちゃう。

うしお 
まあ、あの、これは単なる思いつきの域を出ないというか、人間って頭の中で同時に煮込んだものをなんでもくっつけてうれしがっちゃうようなところあるじゃない、だからほんとはここからちゃんと調べものをして考えを煮詰めるべきなんだろうけどね。

たじま 
くっつけてくと嬉しいから……。
ところで、2や8や7だと、「この都市生活者め!」という感情も生まれるんですよね。

うしお 
あーねー。

たじま 
べつに都市生活者が悪いわけでもないんだけど、地方在住者としての気持ちもある。東京に比べたら、日本全国の地域はたくさんの文化的な選択肢があるというわけではないじゃないですか。公共的なものだけでなく、エンタメ的なものも、経済の中心地である東京に集中しているわけですよ。そのような文化と経済の集中構造をそのままにする方向に進んでいる社会の問題なんですが。
そういう構造のなかでは、東京が特殊で特別な場所であるにもかかわらず、東京が無徴のものとされるような気がして、「この都市生活者め!」って気持ちになる……。

うしお 
日本語コンテンツにおける「東京」の特権性の話かと思ったら主に現実世界のアンチ東京のはなしだった……めちゃめちゃわかるが。

たじま 
アンチ東京の気持ちと混ざった。

うしお 
まあそうねえ、東京の利便性を享受してはいるけど、東京に住み働いていると、東京だけが日本やと思ってんのちゃうぞ、みたいな腹立ちに襲われることはまあある。

たじま 
ゆううつな雲の下には鴨川が流れていてきれいな向こう岸
たけのこの里が楽しいときがきて名古屋の雲を思い出してる
という歌あたりは、京都と名古屋を有徴なものとして言うじゃないですか。そのひとにとって普通の感覚なんだろうけど、それがふつうの感覚として一般に理解されることのえぐみはありますよね。
まあ、京都にいたときは京都もまた別の文化的権威を持っているので「東京が来い」と言えたんだけど、名古屋に住んでいるわたしも、名古屋を一地方として扱ってしまって、一般的な都市としては扱っていない。でも、東京だと都市というのは東京のことですが、という顔をするじゃないですか。
しかも後半に<赤羽駅から商店街を抜けていき子育てをする人たちに会う>という歌などを含む「北区」という連作があり、そこに生活するひとというローカルな目線を入れてるのが、この……都市生活者め!

うしお 
北区、短歌研究の特集かなんかだったのでは? 287の中で見るとみょうな具体性があってやや引っかかりはしたかな。まあ総合誌が東京23区特集をやるのも正直意味わからんっていうか、知らんがなってやつやけど。

たじま 
東京のなかの地域性にあらためて着目するのも、いや、わかるのよ、たとえば地域の歴史に改めて目を向けて、いる場所の文化を知っていくというのは、地域の文化にとって重要なことであるというのは、わかるんですが……。「北区」のはなしするとちょっと話ずれますね。
2や8や7では、都市に生活するひとがいろんな空間や出来事やものを見て、そこにあるものをそれとして示してくれるって感じだと思うんですよ。
そこにあるものをそれとして見る感覚におお、となると同時に、そこにそれがあってあるなあと見ることができるのはあなた(歌のなかのひと)が都市生活者だからですよね?という気持ちにさせられる。
もっと社会の話をしろといいたいわけではないけど、都市生活者の特権性の存在を感じてうっとなる感じかな。認識のはなしをしてるのはわかるが、その認識を精査する余裕があっていいですね、という意地悪な気持ちも湧いてくるよ。

うしお 
東京における都市生活がどんなものか読者みんながすでに理解してくれてるから、いろいろ説明しなくてもそこにあるものをそれとて見て歌にするってことが成立するのがいいですねってこと? それかそもそもそこにあるものをそれとして見るという暮らしにおいて権力構造を意識しなくてすんでいてよいですねってこと?

たじま 
東京の都市生活が都市の共通イメージとしてあって、説明する必要がないのは単純に負荷が少なくていいですねとも思うが、それ以上に後者だと思う。ちょっと後者のことがまだ言語化できないんだけど……。

うしお 
ええ、投げられた。わたしは前者はやや思うけど後者はそんなに思わないかなあ。

たじま 
<少量のガパオライスをたいらげて無印良品へいくあいだ>に、都会はいいですねってノリで、「無印良品がない場所もあるんですよ」とはそんなに思わないけど、似たようなことなのかもしれない……。
この話、長くなりますね?

うしお 
なると思う。

たじま 
そうですね。都市生活者があらわれる口語リアリズム短歌の話、また次回にしますか。

うしお 
しましょう、今日はもう遅いのでおつかれさまでした。

たじま 
ねむくなってきちゃった。おつかれさまでした。

 

うしおに差し入れする

たじまに差し入れする