現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

第3回 口語都市詠と社会の話

 

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たじま
こんばんは。

うしお
こんばんは。

たじま
このまえの続きで、口語都市詠のこと話したいんですが、ちょっと今日のこと話していいですか?

うしお
どうぞどうぞ。

たじま
漫画『ダブル』が無料公開されてて、おもしろかったです。演劇の話って元高校演劇者からすると、自意識がすごい時期へのいたたまれなさとか、そうはならんやろの気持ちで一歩引いてしまうところがあるんですが、「演劇やってる」的な自意識への照れと茶化しがあんまなくてよかった。

うしお
うんうん。

たじま
そうはならんやろもあんまなかった。

うしお
へええ、ダブルよいよね。途中まで読んだ。わたしの知ってる演劇が地点しかないから、あっちの演劇のほうのことはあんまり分からないんだけど。

たじま
まあ、「短歌やってる」的な自意識をことさらにとりあげて尊大な羞恥心をもてあますこころがあるじゃないですか。

うしお
わかるようなわからないような、、でも学生短歌会なんてみんな短歌やってるんだから短歌やってる自意識をことさらに持つの難しくない? でも全く知らない話じゃない気もするから忘れちゃってるだけなのかなあ。

たじま
うん、でも『ダブル』はそういうところをあんまりくどくどやってなくて安心して読めたし、公開されてた最新話の23話がすごい急カーブでよかったです。
おもしろくて帰りのバスで読んで乗り過ごしかけた。絵が上手い

うしお
演じてるシーンとか、人間の表情やふるまいのあらわれ方の違いが絵によって説得されるのやばいよね。

たじま
うん、セリフなしで表情と間で語る映像みたいなのを漫画で見れるとうれしい。
口語都市詠の話、しますか?

うしお
どっちでも……。いやさあ、わたし一応短歌評論はもうお休みしようの気持ちを固めちゃってたもんだから、あんまり総合誌とかチェックしてなくて、歌壇全体に広がるはなしをあつかうのに難しさを感じるんだよね。

たじま
歌壇全体の話だとちょっと広すぎますね。
直近の歌集だと、『予言』『ビギナーズラック』『光と私語』『風にあたる』あたりを想定して口語都市詠って言いがちですけど、読むとわりと全然違うからなあ。

うしお
うん、この中では『風にあたる』はだいぶ抒情だと思うな

たじま
わかる。あと『光と私語』も。

うしお
風とは別方向だけど抒情だよね

たじま
前回、『2や8や7』で「都市生活者め!」ってなったことをちゃんと考えてみると、うしおさんが前回言ってた、「そこにあるものをそれとして見るという暮らしにおいて権力構造を意識しなくてすんでいてよいですね」なんですけど、『2や8や7』のどの歌ってわけじゃなくて、もっとぼやっと拡大して、都市生活者への印象のはなしになるんですよね。

うしお
それってリアル都市生活者への印象というよりは、都市生活詠で書かれてる都市生活者への印象ってはなしだよね?

たじま
そう、都市生活詠のなかの都市生活者への印象。リアル都市生活者のことはよく知らない……。
そこにものがあることだけをそっと指し示すような、なにか意見や主張を付け加えることはせず、自分の認識を素直に差し出して「こうなっている」という空間を見出す目線があるとして、それって、その社会構造で搾取されているひとがいる、いま目の前にある社会について無言になっているのではないか。社会への異議申し立てを際立って行わないですんでいるという特権性があるよね、という気持ち。
いや、短歌で社会的な主張をやってるのをたくさん見たいというわけではぜんぜんないんだけどね……。
むかしの永井祐評で、「社会への抵抗がない」とか(これはわせたんのロングインタビューでこういう評がありますねって言われてた話)、「ノンポリ青年め!」みたいな評がされてたっぽいし、「いまどきの若者は主張がない」みたいな話になるとそれはそれで嫌だけど。

うしお
たしかに抗わなくてもおびやかされないでいられることがすでに特権的であるというのは分かる。

たじま
永井さんはわせたんのロングインタビューでは、社会への抵抗がない話を持ち出されて、「社会のダイナミズムに乗っかって、押し流されている流れを文体に反映させていくことが、文体の変革になっていくんじゃないか」みたいな話をしてて、それはそれで2013年当時の意見なんだろうな……とは思うんですが。
だから、永井祐(作者)はいろいろ自覚的なんだろうなとは思うんだけど、都市生活者像としては、無言に見えることを免れないところはあるんじゃないか。

うしお
その一方で、わたし若者には思想とか主張がないとかの話はすごく嫌で、それはこういうことを言い立ててくるひとはそのひとお好みの内容・形式の主張を見たいだけでしょとしか思えないっていうのもあるし、そもそも思想にせよ主張にせよ人に言われてやるものでもなかろ、と思うからってのもある。

たじま
そうなんですよ。私が社会の話をしろとはべつに思わないって言いたいのもそれ。

うしお
ねー

たじま
まず短歌を主張の道具にするのはめちゃ嫌だしそれを言ったら元も子もないじゃんっていうのもある。物語とかドキュメンタリーの道具にするのも嫌だし。
でも、現代社会で都市で生活して、そこにものがあることを見つめているひと(歌に書かれた都市生活者)が、その社会の搾取構造には目をつぶっていることになってしまうのではないかというのがひっかかるんですよね。
そこに目をつぶっているという自覚がないなら、それは都市生活者の特権性への無自覚ではないのかと。

うしお
思想的観点から作品を考える時、たとえば既存の偏見や差別を強化するような作品は批判されてしかるべきだと思うけど、特定の問題に向けた仕事をしていないということそれ自体は、別にその作品がその仕事を選ばなかっただけであって、とやかく言うことじゃないのかなって思ってる。
もちろん、時代とか文脈によっては、何もしないということそのことが差別を強化しているという場合もあって、簡単に区別できるものでもないと思うけれど。

たじま
ああ〜〜。作品の仕事として見ることなのかなあ。特定の問題に向けた仕事をしていないっていうのは……?

うしお 
えーっとね、手持ちの例がこれしかないから推しコンテンツ周りの話を持ち出すんですが、

たじま
はい。推しの話だ!

うしお
ユーリオンアイスは、同性間の、具体的内容は特定されないけれども愛のようなものとして呼ばれる関係性を描いたわけだけど、現代の社会における同性愛者の権利の認められてなさとか、同性愛表象の少なさとかを思えば、同性愛・異性愛の権力差の問題に対して正面から取り組もうと思うんだったら、男性同士の恋愛的関係を明示した方がよかったという考え方もあるよね。

たじま
クィアベイティングではないかという批判ですね。

うしお
でもユーリオンアイスはこの愛(や作中に出てくるほかのいろんな愛)のなかみを特定しないかたちで表象することを選んだ作品で(ここに商品経済上の配慮が一ミリも働かなかったとは思わないけど)、そうしないと達成できなかった表現上の意義があったし、そもそも恋愛至上主義を拒否するという意味でも、ユーリオンアイスはユーリオンアイスの仕事をしたんですよ。

たじま
うん、あと男性同性愛者、他のキャラクターでいるっぽい話を聞いているんですが……ユーリオンアイスを結局見てないから噂なんだけど……。

うしお
そういう話になってるんだ。みんな男性同性愛者だと解釈しているキャラはいるけど特にそういうことを具体的に特定する何かしらの明示はされてはない、いや、そもそも”明示”ってなんだよという話なので、そう見えた時点でその解釈を制作者も意図したと思っていいと思いますが。
クィアベイティング、同性間の関係性は”ふつう”恋愛だと解釈されないことを利用して関係性のひだを読ませる物語をやっておきながら、同性愛は”ふつう”起こりませんよねってするやつはたしかにナシだと思う。でもユーリオンアイスは作中できちんと同性間の恋愛や結婚をも肯定する目くばせを行っていて、だからこそ、ユーリオンアイスは同性愛差別の問題に抗うことを第一の仕事として作られた作品ではなかったけれども、恋愛も恋愛じゃないものも含めたあらゆる関係性を肯定する仕事ができたんだと思っていて。
あるいは、作品の仕事、物語やキャラクターがどういう価値観をレペゼンすることを望むかって話としては、ハンジさんのジェンダーまわりの話も例になるのかな。わたしこれ見ると怒りたくなるときも多いからあまり追ってはないんだけど、ハンジさんが女性であると明示(また”明示”だよ、いいかげんにしてくれ)してほしかったみたいな見解の人もいるようでさあ。

たじま
うん。社会的マイノリティが作品にいることで価値観のレペゼンがなされるというのはあるけど、同時にひとのマイノリティである側面はそのための道具じゃないっていうのもあるし、そのへんのマイノリティ表象については映画の評でもたくさん見る。
MCUとか毎年ちょっとずつ新しくなっていく行事みたいなもんだったから、すごく批評の変化のスピードが早いような気もする。

うしお
まって、MCUって何のなにですか?
まあ、ハンジさんに”女性”であってほしかったって考え方は、ハンジさんという存在によって女性という属性を肯定してほしかったってことなんだと思うけど、Xジェンダーの人だっているだろうし、そもそも”女性”か”男性”か”明示”しろって求めるの自体が勝手なものだから。

たじま
マーベル・シネマティック・ユニバース、つまりマーベルという出版社のコミックを映画化してるシリーズで、『アベンジャーズ』とか『スパイダーマン』のことです。
MCUを出したのは、アメコミキャラクターという原作がありつつ、その実写化でさまざまな人種をキャスティングしたり、コミックの流れだけど映画の脚本によってそのキャラクターの物語をマイノリティのエンパワメントにつなげるということをしていたからです。

うしお
なるほどマーベルね。ハンジさんは明確にマジョリティ男性ではない存在として描かれていて、わたしはヒーローに憧れるように(これも簡単に気持ちを言おうとしたらヒーローとか英雄とかしか社会的に共有されている語彙がなくてさいあくなんですけど)ハンジさんのことを好きになっていて、今までヒーロー役が与えられるってマジョリティ男性ばっかりだったという点で、非マジョリティ男性としてハンジさんのような人を描いてくれたことにものすごく感謝したいんだよね(ハンジさんの話は無限にしてしまうのではやく進撃を読み終わってください。ハンジさんのナウシカ性とアンチ-ナウシカ性の話もしたいです)。

たじま
ああ、なるほど。私がMCUを出したのは、ヒーローがマジョリティのひとではなく、女性であり、黒人であり、それぞれのマイノリティである、そのさまざまなあり方をたくさんやってるからだとおもう。エンタメなのでとても商業主義的なところはあるけど。
このやり方は「マジョリティではない」属性の数だけ無限にあって、さらに時代を経るにつれてそのマイノリティ表象でも批判すべき点はたくさん出てくるんだけど、逆にハンジさんのはなしでいうと「マジョリティではない」の否定だけを置いているってことになるのかな。

うしお
すくなくともわたしはそう解釈してるかな。というか最初の方わたしはとくに疑問をもたず女性のひとだと思っていたんだけど、ハンジさんはまったく社会的女性ジェンダーのふるまいをしないからか男性かもと思ったひともいたみたい??で、性別を聞かれた作者のひとが、じゃあお答えしない方がいいと思いましたって言ったみたい?な話だったらしいが、まあ、明示されてないし、マジョリティの男性には見えない(屈強な男性ではないためにナメられてるっぽいシーンとかもあるし)人物が、自身の意思として世界のためにやるべきことをやろうとするっていうことがですね、、、あーーすごい脱線してますね?推しの話になるとちょっとだめですね。

たじま
うんうん。「マジョリティではない」というかたちで提示されていて、そのことはさておいてやるべきことをやっていると。

うしお
作品の仕事というところに話を戻しますが、つまり、創作物はその内容や設定によって現代の社会において周縁化された集団をエンパワメントすることができるけど、あらゆるマイノリティを一気にエンパワメントしたり/すべての権力勾配に抗うことはできなくって(なおかつ権力勾配に抗う以外にもいろんな仕事はあって)、だから、その作品が仕事と定めた範囲のことをやるってことでいいんじゃないかなっていう感じです。

たじま
 たしかに。一気にはできないから、そこにいるところからできることをやるしかない。

うしお
そう思ってます。

たじま
ええ〜〜っと、でも、ちょっと思ったのは、何度か言ったけど、目に入っていることについて黙っているのは権力構造を追認しているという誹りを逃れられないわけで、それは短歌の場合、特に言っていないことは考えられる可能性の中でもっとも一般的なこととして理解されやすいという問題になるんじゃないのかな。短いから。
短歌だと主語がまずは「私」になるっていうことから、一般的と想定される像が優先されて、「一般的じゃない」ことは殊更に説明や詞書や外部情報が必要になってしまう問題のことなんですが。

うしお
うん、まあ、それはそういうとこはある感じする。単にそれを仕事にしなかったってことと、権力構造を追認しているってことの違いって、グラデーションだし、時代とか文脈とかによっても変わってくる気もするし、わたしは都会育ち都会暮らしなので、どっちかっていうと都市生活者側の観点しか持ってないんだよねえ。
短歌、作品に載せられるものってある程度限界があるから、文体とか修辞とかを載せていってしまうと、あとの余白は既存の価値観で読ませるしかなくなっちゃうっってとこもあるし。

たじま
既存の価値観のなかである瞬間のリアリティを発見して、それを言葉に起こしていくっていうのが写生システムだったのかな。一般的な(と想定される)価値観を前提にしているっていうか。

うしお
この問題について、ぜひぜひ読まれてほしい評論があり、小原さんが角川の2019年10月号に書いてるやつなんで、前のやつだし長々引用させてもらいますが、

「仮想の読者を念頭に置き、個々の表現がどのように読まれるか推測しながら「言わなくてもわかる」要素を極力省くことは、表現の効果を最大化するための基本的な技術である。
しかしここで設定される仮想の読者とは、既存の社会的・文化的通年の内在化にほかならない。……(中略)……短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか。作家において或る権力関係は利用し、別のものは拒むという姿勢は都合が良すぎるだろうか。……(中略)……短歌定型は、言葉が個人の自由になりえないことの恩恵と弊害とを真正面から受ける構造をしているのだと思う。結局は地道に言葉の用例を重ね、意識的な評によって読みの先例を作ってゆくほかなさそうであるが、それは短歌を以て短歌に、言葉を以て言葉に抗うような困難を伴うだろう。」 小原奈実「沈黙と権力と」

いやあ、たった見開き一ページの評論なんですけど、だいじなことぜんぶ言ってあるんですよ。

たじま
まさに、既存の社会的・文化的通年の内在化に抗う地道な積み重ねのための多様な文体ですよ……。ここ2時間くらい話してた話がおおむねぜんぶ入ってた……。
〜〜〜完〜〜〜。

うしお
わたしはいまのわたしの手持ちの文体しかもってないので、そうなるとできる抗い方が『予言』と斉藤斎藤しかなくない? となってしまうよ…… 好きだが、やりたいかと言われるとどうかなあ。

たじま
うん、まあね。『予言』と斉藤斎藤で並ぶんだ。鈴木ちはねと斉藤斎藤ではなく、『予言』と『人の道、死ぬと町』でもなく

うしお
なんとなくそうなっちゃった、鈴木さんはツイッターにいるので人間っぽいし、斉藤斎藤はもう名前とか、あと近作とかからしてももう総体として斉藤斎藤というパッケージなんだなあと。

たじま
鈴木さんは歌会で会うから人間っぽいんじゃないのかな。それって抒情から逃れつつ口語リアリズムをやる、みたいなこと?

うしお
というかその、写実的文体だと抵抗の方法がアイロニーしかないんじゃないのか、(だったら困るんだけど)ってことを考えてるんだよね。

たじま
アイロニーか、写実的文体からは外れるけど幻想か、あとは瀬戸夏子……?

うしお
写実の延長で素直に短歌的抒情をやるって文体もあろうけど、結局何をやっても世界の肯定にしかならなくない?

たじま
短歌という既存の価値観を内在化しがちな詩形でさらに写実的文体をやると世界の肯定になるってことですよね。

うしお
歴史を振り返るに、戦争を憎みながら前衛歌人になるってやつにすごく納得いってしまった。

たじま
うん……。戦争じゃないけど社会と国家のやばやばを目の前にして生活がわやわやにされちゃうとね……。

うしお
はーーどうしたらいいと思う? こんなんだったら歌会やりまくってた頃に幻想か瀬戸夏子の練習でもしといたらよかったかしら?

たじま
うしおさん幻想耐性なさそ〜〜。

うしお
わかる~ いや、こんなのは言ってみただけであって、別に自分の文体をやめたいとかそういうことではないんだけどね。その時できることで一番いい歌が作れそうな方向を手さぐりしていたことの結果として今の文体になっているので。

たじま
私はなんか、幻想とか騙し絵みたいなことができないかな〜という気もしてる。見間違いとか、別の可能性とか、幻想の一歩手前のことに行きかけてるのかもしれない。でもあんまちゃんとつくってないからやらなきゃですね。

うしお
たじまさんに幻想の道があるのはわかる。
通れそうな道を通ってきたってだけで、あらゆる選択肢を吟味しようとはしてなかったので他のあり方について考えたりはしちゃう。あと最近自分にもやや情緒が増えてきたことがわかるので、通れる道も増えてないかなあ、とか思ったりもするね。

たじま
でも川野芽生さんの『Lilith』を見てると大変そう(あの域に私が行けるとは思えん)だからひぇ〜〜って気持ち。まあ、手探りでなんとかしていくしかないですね。

うしお
そうですね。

たじま
こんなところで。おつかれさまでした。

うしお
おつかれさまでした。

 

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