現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

第4回 アイロニーと社会詠の話

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たじま
こんばんは。

うしお
こんばんは。
前回の補足ですが、リアリズムよりの文体で抵抗するやつ、『崖にて』があったなって思いました。

たじま
ああ〜〜、たしかに。

うしお
〈いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい〉
〈ごめんなさいデモにはいきたくない すーっと風から夜が始まってゆく〉
〈八月十五日 お家三軒分くらいの夕焼け雲 なんなんだ〉
北山あさひ『崖にて』

たじま
はえ〜いい歌だなあ。エネルギーありますね。社会へのあらがいのエネルギーが。

うしお
あと思ったんですけど、抵抗の話をするとき、今までの主流派とも言えるアララギ的(?)日常生活を暮らしつつ社会に対して思ったことをにじませるみたいな社会詠のことはまったく挙げてませんでしたね。それこそ吉川さんとか。

たじま
吉川宏志さんのようないわゆる「社会詠」ですね。

うしお
そう、そういう歌のことを私は「社会詠」だとは思ってたけど抵抗だとは分類してなかったなあと。

たじま
私はわりと「抵抗」としてカウントしていました。社会に対する批判的な意見をストレートに短歌に載せるのがいわゆる「社会詠」だと思うんですけど、それも社会を憂う抵抗だと言えると思う。ストレートすぎるのがどうしてもスローガンに見えてしまうという問題はあるけど。たぶん、うしおさんの言う「抵抗」は、わりとメタ的な抵抗ですよね。文体的な抵抗というか。

うしお
言われてみたらそうですね、なんでだろ。わたしが抵抗の必要性を感じるのは現実社会のありさまからもはやそうせざるを得ないと考えるに至ったからなんですけど、なんか、リアルな生活者の感情や思想という地平でそういう話をする短歌を読み作りすることにはあまりテンションが上がらなくて。

たじま
まあ、現実を生きているわたくしにべたっとついた形での主張をするために短歌を作ったりすることには抵抗感ありますね。

うしお
うん、そういうリアリズムの、生活をしながら現代社会について考えるわたくしの像を見せられてもなんか、われわれが暮らす社会にこういう営みが必要であることはわかるんですが。

たじま
ただ、最近の私の関心でもあると思うんですが、いまって東京の国会議事堂で行われている政治が真面目に生活の行動制限にくっついてくるじゃないですか。で、信じられないような発言を見たり、電車で隣にいるひとがやば発言をしてたり、全然違う考えを目の当たりにして、このひとには通じないな、と思うこともある。まあべつにそれはそれでいいんだけど、通じないということに直面するようになってきた。私の出来事なのでみんな前からそうだったかもしれないんですが。
そうなると、吉川さんみたいな「社会詠」も有効だったんだな、というのがわかってきた気がします。せめて自分の立場を明確に主張しておく、という。

うしお
ああ~そうなのかなあ、そうかも。確かにどれほど当たり前で自明と思えてしまうこともちゃんと言わないと権力に利用されてしまうだけだなあというのは、短歌というより今の社会状況としてそうだねえ。うんざりしちゃうよ。
現実からは逃れられないのになんであらためて作品の上でまでこんなしんどいことを考えなきゃいけないの?と思ったり、箱庭の中に生活者としての自らの像を作ってその像に社会を考えさせるなんてまどろっこしいことやるならふつうに社会科学勉強したほうが楽しくない?と思ったり、正直ナイーブな反応としてこういう気持ちにならないわけじゃない、でも社会詠にはずっと関心あるんですよね。

たじま
そうなのよ。

うしお
出典がどこかわからないんですけど、アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました〉斉藤斎藤)に対して、吉川さんが、でもこの歌を読んでそのまま賛成なんだ~って思う人がいるかもしれなくてダメじゃないか、って言った回がどこかにあったじゃないですか。

たじま
あった! 何のやつかわからないけど有名な話。それなんですよ、誤解を免れないし、誤解だと作者がいうこともできないのはこわい。あまつさえ、本当に賛成しているようなひとに利用されかねない。
これはインターネットが社会になってる目線でもあるんですけど、マジで皮肉をそのまま飲み込んでしまうひとがツイッターにはいて、疲弊する言説がわんさかあって、そうなると、吉川さんのやっている社会詠は、自分の立場はせめて明確にしていて、その方が安心するっていうのはわかる。

うしお
アイロニーは、伝わる人にしか伝わらない、伝わらない人のことなんて知らんというタイプの表現であり、分断を生むタイプの表現であるっていう話を前に佐々木朔さんとしたんだけど、わたしは正直わからんひとにわかってもらう必要ある?って思っちゃうほうだから、この分断のことを思うとちょっと身につまされます。
わたしがアイロニーに行きたくなっちゃうのって、もはや正面から何かを言う気も起きないからだし、結局考えざるを得ませんねって思想と抵抗の話を今してるけど、ほんとはこういうことを考えなくてすむ立場を得たい、あるいは、脅かされていることを認めたくないっていう気持ちもきっとある。

たじま
私はわりと、わからんならわからんでいいし、主張をこめるよりもスタイルや文体でやっていく方がいいなと思っていたんですが、まあ感染症拡大以降から特にだけど、いよいよ社会情勢のやばさが差し迫ってくると、マジレスしてるひとを見る方が安心するようになってきた感じがある。(別の話だけど斉藤斎藤がマジレスじゃないかというと微妙)
主張を全部言うと、短歌が全部主張で埋まっちゃうんじゃないかと思ってたけど、それでも主張を明言しないと変な方向にねじまげられてしまっても抵抗できない可能性があると思うとこわいな。
だからといって今後の私が主張バリバリになるかというとそういうわけでもないですが。それこそ自分の文体との綱引きだよね。

うしお
こないだ土岐善麿と図書館について書いた本を読んで、土岐善麿って戦後に文化人枠で日比谷図書館の館長になったりしてたらしくて面白かったんですけど、その本自体はクオリティがあんまりで、善麿の歌を引いてこの人はこういう気持ちで図書館のことを考えてたんですね~とかいう話もしていて、うわ~って感じだったし、おちおちアイロニーも言えないじゃないかって思ったよ、、、

たじま
おちおちアイロニーも言えないよ〜〜!
えっじゃあすごく素直に歌の内容を受け取られてしまう可能性もわれわれの後世には、、、

うしお
まあ短歌プロパー以外の文脈で歌を読まれうる立場の人はそうなのかもしれませんねえ、やんなっちゃうな。ほんとにほんとにイラク攻撃に賛成だと思う人のことまで考えなきゃいけないの??

たじま
吉川さんが斉藤斎藤さんの歌になんか言ってたのってなんだろ、ググったら見つかりそう。ちょっと待ってね。
……あった、瀬戸夏子さんがわせたんに評論書いてる。>『早稲田短歌40号』

うしお
おっ

たじま
あっわかった、短歌ヴァーサス六号』って書いてある。座談会だ!

うしお
座談会だったんだ! 何かの論争の断片なのかと思ってた

たじま
吉川さんと荻原裕幸さんの座談会みたいですね。江戸雪さんが司会してる。
あっ待って待って、わたしいま、『短歌ヴァーサス六号』、机の上の積読にあります!!!

うしお
天才!!!!

たじま
ありがと〜〜〜!!! ある!!!
待ってね、引用します。いやすごいぞ。キレッキレ。

吉川−でもこの「アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました」なんて歌を読むと、この人はあまり信じられないなと思ってしまう。
荻原−アメリカのイラク攻撃に賛成してないってことなんじゃないかな。
吉川−どんな前提でそんなことを?

どんな前提でそんなことを!?!?!?

うしお
ひえ~ つまりこれってアイロニーに伴う分断を認めないって立場なわけかあ。

たじま
短歌ヴァーサス六号』、なんで家にあるのかと思ったけど、正岡豊さんの誌上歌集があるからだ。
ええっとね、ちょっとおもしろいこと言ってる。この歌を荻原さんは皮肉として、江戸さんは「言わされている感じ」として受け取ったことを言ったら、

吉川−それはあなたたちが作者がリベラルだという前提で読むから、そういうことになるわけで、僕はそんなふうに読者に深読みをさせる力は、この歌にはないと思う。

それに荻原さんが「ものすごく自覚的だとは読めると思うんです」と言ったのを受けて、

吉川−もちろんその意図はわかるんだけれど、都合よく解釈してくれる一部の読者に甘えすぎなんじゃないですか? 普遍的な読者は、作者の意図から離れて、作品自体の言葉を読む存在であるはずであって。そんな読者を無視したら、作者も無視されると思う。

で、荻原さんが「それはどんな作品でもそうじゃないの」吉川「もちろん全否定しているわけではなくて」と続いていく。
アイロニーに伴う分断を認めない」立場というより、素朴なテキスト主義的な、作品だけを読む立場ですよね。

うしお
おわー いや、この歌をアイロニカルに解釈する読みが読者への甘えだとは思わんし全然賛成できないけど、こういうことをまじめに考えなきゃいけない度合いは近年増したのかもしれませんね。

たじま
短歌で作者の実人生や意図から作品を推察するのではなく、短歌自体を読みましょうという立場なのかな。それって、短歌ヴァーサス六号が2004年だけど、2004年時点ではまだ「最近の若い人の考え方」だったのかな、まあ知らんけど、「父親のような雨に打たれて」(石井僚一)以前ですよね。
もちろん、吉川さんの2004年の発言の切り取りなので、あんまり吉川さんの意見として代表させるわけにもいきませんが。それこそ2011年の震災以前だし……。

うしお
でも作者の実人生、つまり例えば竹山広さんはこういう経歴の人だからっていうところから読みにいくのと、作品自体から読める意図、イラク攻撃の連作のほかの歌〈攻撃中ですが時間を延長せず、皇室アルバムをお送りします〉とかを補助線に読みに行くのって現象として別の話かなとも思うよ。一回目ちょっと言語の解釈と意図の話をしたじゃないですか。

たじま
おっ仮想的作者の意図主義ね。そもそもそうですね。伝記から読むのと作者の意図から読むのとはちがうね。

うしお
意図主義全般に共通する立場だけど、言語とかの解釈の根拠を、その作者・話し手の意図に求める立場というのは広く存在しているんですが、その中でもその意図の内容を作者の実人生を材料に、作者が実際に意図していたことが何であるのかという観点から考えるのか、テキストのみを材料にしてそこから再構成できる仮設的な意図として考えるのかとかで、意図ってものの定義からして違ってくるじゃないですか。

たじま
待ってね、ええと、「〇〇」という発話に対してその意味を解釈するとき、作者が言ったときの意図を根拠とするのか、テキストから読み取れる意図を根拠とするのか、とかいろいろな立場があって、てことだよね?

うしお
とてもざっくり言うとそういう認識です。わたしも意図のこと考えなおしはじめたの最近で、むしろいまは道に迷ってきてしまったのであれですが。
まあ、でもはなしついでに理論言語学まわりのトピックを追加すると、アイロニーっていうのは言語の再現的な用法、エコー発話とかポリフォニーとかの用語のほうがいいかな、つまり、どこかで誰か別の人が言った言葉を引用してきたという形の用法だと言われてるんですよね。

たじま
ええと、なにか言ったり書いたりされたものを解釈するということにもいろんな立場があるんだなあということはわかりました。
う〜〜ん、アイロニーの話がまだちょっとわからん。アイロニーは、解釈されるものである「〇〇」をさらに引用してきたものってこと? 

うしお
つまり発言内容に話者がコミットメントしている状態で話しているときは、話し手の頭の中の思想を示したものとして言葉が使われているけど、アイロニーのときは、どこかのだれかの思想にはこんなものがありますよってことを単に再現して持ってきただけたものとして言葉が使われてるんですよね。

たじま
うん、ええと、感覚としてはわかる気がする。

うしお
街を歩きながら目についた看板を指さして、うわ、あんな看板が立ってるよって言う感じの。

たじま
枠に入れてるってことですよね。

うしお
そうそう、指さすこと、引用する行為すべてがアイロニーになるわけでもなくて、紹介とか詠嘆として行われる肯定的引用も、疑問としての引用(相手の発言の繰り返しとか)も、否定的引用(アイロニー)もある。

たじま
ああ、否定的引用(アイロニー)。なるほど。

うしお
そういう立場を思いながら斉藤斎藤を読むと、アイロニーが引用することから成り立っているということにものすごく納得がいくんだよね。

たじま
ダブルクオーテーションマークのジェスチャーのことを連想しました。

うしお
それ。あのジェスチャー、なんか馬鹿にしてるっぽいニュアンス出るじゃん。モノマネとかもそう。引用することによって、引用元を対象化するというか、メタ的にまなざすことになるというか。
あと、地点がテキストをわざと断片にしたりリフレインしたりするのも、引用とかのテキストを操作する手つきのほうを目立たせているところがあると思って、それでああいうアイロニカルな力が生成してるんだと思う。
(地点、私は地点から演劇に入ったから演劇が地点しかなくて、ことあるごとに地点の話をしちゃうのだけれど、あそこでハラスメントがあったってことを批判するし忘れないことも必要だと思ってるので今こうやって注釈もしますが)

たじま
なるほどな。『人の道、死ぬと町』の後半とか特にそうですね。
地点の話にいく前に、斉藤斎藤さんで思い出したんですけど、平岡直子さんと我妻俊樹さんがやっているネットプリント「ウマとヒマワリ」が、お正月にバックナンバーまつりをやってて、わーいって出したんですよ。そのなかの去年の1月のウマヒマ7の付録で対談してて、すごくよかった。ざっくり言いますね。
短歌ってほんとは無意味寄りなのに、「短歌に意味があるってことにした」のは、岡井隆なんじゃないかという話で、前衛短歌とかは意味じゃないはずなのに「前衛短歌の意味合い自体が岡井さんごと重たい暗喩の方へずれていったという感じがする」と平岡さん。
前衛で人気があるのは塚本邦雄だけど、文体として影響を及ぼしているのは岡井隆ニューウェーブでは人気があるのは穂村弘だけど、東直子が文体に影響を及ぼしているのではないか、じゃあポストニューウェーブの文体的な影響元はというと、笹井宏之なのではないか、と。
その笹井さんの歌もまた笹井さんの人生の暗喩のように読まれているかもしれなく、「短歌はどうしたって暗喩として読まれてしまうわけだ」(我妻)と。

我妻−奥村晃作さんや斉藤斎藤さんの歌は、笹井さんと逆をいくことで隠喩化を防いでいるところがあるかもしれない。定型を事実で隙なく塗りつぶすことで隠喩として読まれることを封じ、無意味さに近づくというか。

うしお
ええっ、ツイッターしてないあいだにそんなことが…… わたしネットプリントを印刷する能力に欠けてるみたいで、出し損ねてしまうやつばっかりなんだよね。

たじま
ネットプリントむずかしいよね、出すのが。
今回、最初に主張をやってる方がせめて抵抗になるんじゃないかみたいなことを言ったけど、この、なんらかの意味や物語を付与されることを封じていくのもひとつのやりかただよなって思う。
「定型を事実で隙なく塗りつぶすことで隠喩として読まれることを封じ、無意味さに近づく」って、やばない???

うしお
定型を事実で塗りつぶすことによって無意味さに近づく!

たじま
そう、定型を事実で塗りつぶすことによって無意味さに近づく!!

うしお
意味とか物語とかから逃れることの快感、地点なんですが……。

たじま
地点だ!!!! 京都の劇団「地点」の作品は短歌だったよね、というはなし、ある。

うしお
地点と斉藤斎藤には相通ずるものを感じてるけど、短歌だとは思ってないかも。

たじま
まあ、斉藤斎藤ですよね。どっちもわかるひとしかわからない話なのでさすがに付け加えると、「地点」はチェーホフや太宰の作品のテキストを、時系列をごちゃまぜにして、台詞をいう役者さんも固定しない、ドラマをやるのではない感じのお芝居をする劇団です。
斉藤斎藤と地点作品の共通点というのは、まずは引用がめちゃくちゃある、という点でつながるよね。

うしお
ついでにエルフリーデ・イェリネクのスポーツ劇をめちゃ推ししたいです(この話はたぶんツイッターだけでも五回ぐらいしていますが)。現代詩手帖の2016年3月号に抄訳しか載ってないんですけど……。

たじま
はい。その話いっぱい聞いた。

うしお
ごめんね、好きなものの話を無限にしちゃうので。

たじま
私もだよ〜〜。ただまあ、地点の話すると長くなるね。
あと、(さっきも言ってもらったけど)地点の話をすると、地点の演出家である三浦氏のハラスメントの問題が現在進行形で訴えられているので、その話も追記すべきですね。

うしお
しなくてはいけませんね。

たじま
ええと、いまの時点で私が知っている最新の経緯をまとめてらっしゃる記事があったので繋げておきます。

http://www.kamoberi.com/article.html?id=ga_ysa_gy

 

うしお
前はちょっと和解しましたみたいな雰囲気だしてたやん?? いちおうの落着をみたという認識だったんですが??? ううう。

たじま
作品について語るとき同時に触れないで語れない状態になっていたので……。

うしお
だよねえ、地点についての説明を補足すると、国家とか戦争とか天皇制とかめちゃめちゃ社会と切り結ぶテーマもよく扱ってる劇団で、わたしはそういう演目が大好きではあるのでなおさらこの話をしないわけにはいかないですね。
作者の倫理性と作品の良しあしというはなしではなく、いや、わたしは地点の公演はだいたい好きかめっちゃ好きかのどっちかになるんですが、これは製作過程に人権侵害が含まれてるものにお金を払っていいのか?って問題なわけで。

たじま
うん……。

うしお
fin.(つらいので今日はここまで)

たじま
そうね。また短歌的事物の話もしたいですね。そのうち。

うしお
しましょう。お疲れさまでした。

たじま
お疲れ様でした。

 

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