現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

第6回 われわれの偏見とアファーマティブ・アクションの話

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下記はイベント「オンライン短歌市」(2021年2月21日)初出のトークです。

イベント時に発行したネットプリント期間が終了したので、ブログに公開します。

短い間でしたが、「現代短歌よもやまばなし」をご覧いただきありがとうございました。

また、ご感想やギフティーをくださった方々、ありがとうございます。大変励みになりました。

それでは、また。

 

たじま 
こんばんは。
うしお 
こんばんは。
たじま 
来週がいよいよ「オンライン短歌市」で、このブログ企画は今回が最終回になります。この回はブログ上では未公開で、「オンライン短歌市」で初公開ですね。
うしお 
わたしたちにとっては来週だけど、この回が公開されたときには来週がきてますね。
たじま
そうだった。これまでやってみて、どうでしたか?
うしお 
はじめたときは無限に話すことあるかと思ってたんですけど、なんだかんだ毎週お話ししていると話すことに迷ったりもするんですねというのが発見でした。まあそれでもインターネットに出さないような雑談を含めたらお話しすることはいくらでも出てきましたが。
たじま 
たしかに。毎週わりとちゃんと話す感じになってて、最初はもっと適当な話をさくさくするくらいが大変じゃないかなと思ってたんですが。楽しかったけどね。
ぼんやり考えててうしおさんとの話だとすぐ通じることも、ちゃんと考えて言葉にしていこうとすると結構大変でしたね。楽しいんだけども。
うしお 
うん、言いたいことが先にあって、おたがいざっくり伝わってるのに言語化できないからちょっと待ってとかやってましたよね。楽しかったのでまたやりたいです。
ただ、ここまで好きなように話してきたわれわれにはちょっと反省すべきところもありますよね。
たじま 
そうなの。気の赴くままにやってきたからこそわかったことがあって、自分たちの話を読んでるとね、男性歌人の話ばっかりなんですよね。
うしお 
そうなんですよ、たしかにわたしたちは考えたことや関心のあるものについて話しましたが、こんな偏るか??って思いましたね……。
たじま 
自分たちの関心であるところが「自然と」男性たちがしていることになっているの、結構うわってなりますね。
うしお 
好きな歌人というだけなら男女問わずいて、『カミーユ』や『遠くの敵や硝子』はじぶんを短歌の気持ちに向けるぞってときによく写してますし、花山周子さんは歌も評も好きで、歌集まだの方だと谷川由里子さんや武田穂佳さんとか、、、
でも、作品の影響関係とか短歌の歴史とかを考えるときに、「自然と」考察の対象にするのが男性のひとばっかりだったということには、こういうアウトプットをやってみるまでほんとに自覚できてなかったです。
たじま 
ね〜。ちょっとまじめに話をしようとして、これまでの短歌の実践のことや、これからの自分たちの実践の話をしようとしたら、男性たちばかりになっていた。
それって、私はあんまり社会学に関心がなかったしよくわかっていなかったんですが、今の自分はやっぱりどうしても現在の不平等な社会の価値観を吸収してしまっていたんだなって。「男性を取り上げる」という行動にそれが現れているとも言えるのかなあ。
または、これまで実践を牽引しているものとして男性が取り上げられることが多く、そういう、男性を中心とした論が蓄積されている状況があるということなのかもしれない。
うしお 
歌壇史を考えるにあたって男性の作品や評論ばかりが取り沙汰されてしまうという話、話としてはちゃんと認識していたはずなのに自分が「自然と」考えていたことがそういうことに沿ってしまう、というのはうわーーと思いましたし、なかなかショックですね。
たじま 
ね。とても親しく、やっていることを尊敬しているはずの人々を「まじめな話」から取り除いてしまっていたの。びびる。
これって、なんなんでしょうね。どうしたらこうならなかったんだろうと思うと、もう、自分が差別的であることを前提にしないとダメなのかな。偏りがあることの自覚というのは前々から思ってはいたけど、それにしてもこんなにはっきりとあらわになると。
うしお 
いやあ、ほんとに。アファーマティブ・アクション的なものの必要性をひしひしと感じてしまいました。
たじま 
そうそれ。アファーマティブ・アクション。システムとして導入しないと人間はダメ。
うしお 
わたし、アファーマティブ・アクションのことはじめて知ったときは、ふつうにちょっと嫌な気持ちになったっていうか、属性によらずフラットに評価してもらえるのが一番いいんですけどって思ってたこともあったんです。でもこれって、まずは屏風から虎が出てきてくれるならそれでよろしいでしょうけどねっていうか、人間社会において属性によらないフラットな評価が発生してることなんてほんとにあるんですかって問題を認識することからすり合わせなきゃなんですよね。
たじま 
うん……。属性で選ばれることがまかり通っている社会なので……。それ私もあんまりわかっていなかったんですが、そもそも属性で選ぼうと思っていない(自覚していない)にも関わらず選んでしまうんですよね。それこそ大学生のときはいまの社会が不平等であることをあんまりわかっていなかったけど、会社の上司やえらいひとたちを見ると、どう見ても女性は少ないし。
でもそれが自分自身のバイアスにもなっているということは、ほんとに自分に起きないとわからないものですね。
うしお 
わたしの場合、職場はかなりよい方で、むしろわたしはいまの会社に入ってはじめて、十とか二十ぐらい年上の物知りでいろんな経験があるすてきなお姉さんたちを得て、それまでに身近にいた尊敬できる大人っていうのがほんとうに男性ばっかりだったことに気が付きましたね(まあこれは、それまでのわたしは大学の先生たちが大好きだったという話でもあるんですが)。それでも弊社でさえ管理職の男女比半々には至ってないんです。
たじま 
あああ〜〜。尊敬するひとが男性になっていた、そうですね……。尊敬する思想を表明していたり、作家だったりする女性が少なかった。そこにたどりつける女性が少ないという問題。
その点では、女性である歌人が結構まわりにいたのはよかったことでもありますね。学生短歌会だったからもあるし、京都だったからもあるけど。京都だったからかな?
うしお 
はい、当時はどういう意味でのうれしさなのかまでは認識できてなかったんですが、「月と六百円」で河野美砂子さんや中津昌子さんにお会いできたのすごいうれしかったんですよね。
たじま 
ね!! 「月と六百円」って先輩である大森静佳さんが中心となってやっていた勉強会ですが。ほんと河野さんと中津さんすき。
うしお 
京都だったからなのかなあ。
たじま 
大森さんの人徳もあったね。アファーマティブ・アクションの事例なんですけど、二〇一九年のあいちトリエンナーレが大々的でしたね。出展作家の男女比が半々で、これまでの男女比の問題や、美術界で学芸員は女性が多いのに館長(管理職)は男性が多いという現状を改めて提示してその重要性を語っていて。

 


私は現在の状況では、芸術監督がある程度裁量をもってこういうことができるならしたほうがいいんだろうと思っています。
うしお 
これはえらい取り組みですね、ていうか美術館の男女比のグラフとかだいぶつらいな。
たじま 
日本のお役所的な(公共的な)ところではまだできないかもしれないけど、ひとりの芸術監督が裁量をもって行える場ならできるんですよね。
今の段階ではお役所がシステムとして導入するのはまだまだ先かもしれないし、国会議員でさえあんなんなんだけど、すくなくともこういう個人が責任を負える場で不平等を是することができる機会があるなら、個人はその責任においてそいや!っとやっていくほうがいいんだろうなと思わされました。
いや津田大介さんを全面的に好きというわけではないんですけどね。
うしお 
アファーマティブ・アクション、評をするときに取り上げる作者の男女比とかの、見えない評価軸が適切に適用されてるかチェックする、という感じのどちらかといえば納得しやすいやつだけじゃなくて、入試とか点数みたいな数字が出て評価・採用するものにおいて男女比をそろえるというやつもあるじゃないですか。後者のほうはどっちかというと受け入れられにくいアファーマティブ・アクションなのかなあとか考えたりしますね、ちょっとここで私たちが取り上げてる例とは話がずれるんですが。
たじま 
ああ、津田さんのトリエンナーレのときのインタビューでも「女性に下駄をはかせるのか」って言われることに対して「男性の履いていた下駄を脱いでもらう」という言い回しで返していましたけど、受け入れられにくいというのは、そういう批判のことですよね。「でも東京女子医科大学は女性の点数を下げていましたよね」という……。あれやばいよね。いま思い出しても新鮮にやばい。
うしお 
はい、入試と男女比というのでよぎりはしたのですが、この話はちょっとこころがぐちゃぐちゃになる。高校生のときは進学校にいて、わたしは医者になりたいと思ったことは一度もなかったけど、「女子は本番でこけやすい」っていうのすごく聞いたことあったし、よい学歴が得られたら自分で自分の人権が安堵できるんですねと思っていたし(この発想もほんとどうかと思いますけどね、そのときはそう思ってたんですよ)、なんか、もう、社会への信頼が毀損された、信頼っていうかこんなん信頼以前の前提だと思うんですけど、、、。あと違国日記ありがとうありがとう。
たじま 
「女子は本番でこけやすい」、ありましたね!? いまおもうと腹立つ話だし、それだいたい大人が子供に言うじゃないですか。まじで良くないよね。
腹立ちで話がズレた。ええっと、点数的なものでのアファーマティブ・アクションというと?
うしお 
あ、はい。歌の評とかトリエンナーレの人選とかは、数値的には明確化されない評価・選出が働いてるやつで、これの男女比(あるいは地域や人種かもしれないが)をそろえるべきだっていうのは、批判が出るのかもしれないが、評価軸が歪んでないかの確認として納得しやすい方ではないかと思っていて。
でも後者の、数値的基準によって評価・選出されるものにおいて男女比を揃えるべきっていうのは、実質的にはマイノリティの属性の人の点数に下駄をはかせるってことにはなるので、前者に納得しても後者に納得できない人が多くなるのでは、とか考えるんだよね、まあわたしがそうだったので。でも、今の私は後者においてもアファーマティブ・アクションいるよなあと思っているので、過去の私のために納得した経緯の話をしたいと思うのですが、
たじま 
ああ、そのあたりは私は先に感情的に納得してて、理屈が追いついてなかったかも。
うしお 
ある属性AとBの人たちがいて、その人たちをある評価軸によって選ぶとき、理想的な状態であれば、選出された集団のAの人Bの人の割合は、社会全体と統計的誤差の範囲で同じぐらいの割合になるはずだよね。そうなってないってことはどこかで偏りがある。例えば入試の例だと、女の子は勉強しなくていいっていう人がたくさんいたらそりゃあやる気がなくなるし、女の子は浪人しない方がいいっていう話はわたしも直接じゃないけど言われているのを聞いたことあるし、あるいは男女じゃなくても経済的要因として教育費がかけられないとか、家のこと手伝ってて勉強までいけないとか。そういう社会の外部的要因があると、評価軸自体は正当なものであるはずなのに、属性による格差が発生している状態がありえて、そのときに、この格差を解決するために取りうる手段の一つが後者のほうのアファーマティブ・アクションなのかなあって。
さっき、尊敬するひとが男性になってた問題の話をしたけど、社会におけるロールモデルのためにも先行世代のひとの数が少ないときついというのもあるし。
たじま 
なるほど。機会均等というフェアさが、実際にはフェアなものとして機能しない問題に対する回答ですよね。うん、システムという外部的で機械的なものを導入しないとどうにもならないだろうな。
うしお 
そう。評価軸が無自覚に歪んでませんかって問題と、たとえ評価軸が公正なものだとしても機会均等ですかって問題と、両方あるのかなあって。
たじま 
「機会は均等である」というけれど、実際には家庭内や価値観の時点で削られていているのにっていう。
機会均等の話って、ジョン・ロールズの正義論でいっぱいそういう話があるはずなんですが、あんまり覚えてないや……。ついでに批判もいっぱいあるはずなんですがあやふや……。
うしお 
あと前者の評価軸が無自覚に歪んでませんかって話も、作品の選とかの、理論上は特定の属性にコミットしない評価軸を評者が歪めて適用してしまっているってときと、そもそも評価軸自体が実は特定の属性の人間だけを選び出す形で作られていたってときとあるのかなあって思う。社会制度が心身ともに健康な異性愛者男性を標準として作られている、みたいな。
たじま
うんうん。
うしお
けれどもアファーマティブ・アクションは難しいだろうなとは思う。理想の状態に近づくために、問題解決のための何かしらの施策をとりましょうって、なんだろう、政治っていうことなのかなあ。最終的には制度設計のテクニカルな問題になるような気もして。ここまでの話もとりあえず人間を男か女かにして話をしてしまったように、制度って何かしらの線引きを作り出すものだし、個々人のきめ細かい事情に対応してくれるものでもなく、万能な解決策なんていうものはないんでしょうねえって思います。
たじま 
まあ、政治的正しさ(ポリティカルコレクトネス)って、今の段階ではこのような対処法を行うしかないですっていう政治的な態度の積み重ねで、状況が変化するにつれてどんどん変わっていくことのはずなんですよね。ロールズの正義論なんて七〇年代の著書のはずだけど、実際の問題を目の前にすると、これが参照できるんだろうなと思うから、思想や哲学の勉強をしたいなと思うんですが。私は研究からは降りたので、勉強です。
う〜ん、短歌(ひいては歌壇)におけるアファーマティブ・アクションを考えてみると、まず思い浮かべるのは総合誌の書き手とか、総合誌の新人賞の受賞者とか、あと総合誌の新人賞の審査員と、批評会のパネリストの男女比とかかなあ。評する時に取り上げる歌人の話からちょっと離れて、システム的なものとしてですが。 
総合誌の新人賞の審査員は「男性(大御所)、男性(中堅)、女性(中堅)、若手」みたいな型がありそうだけど。
うしお 
うんうん。男女とか歌歴とかのバランスをとる人選にしようってそういう型になるんだろうけど、それで女性一人っていうのがバランスのいい人選だと思ってるんですね~と思わなくもないやつですよね。
あとうろ覚えなんですけど、睦月さんがいつか評論で、男性と女性だと、女性のほうにはそもそも評論の依頼の機会が少ないんじゃないのって指摘をされてた気がする。
でもこういうの決めてるのって、短歌総合誌の編集者なわけじゃないですか。短歌の流通媒体にはインターネットも結社誌もあるけど、総合誌がどのような人選を行うのかってことからもたらされるものは大きいように思われて、そりゃあ総合誌にはがんばってほしいですけど、単に労働としてやってる人に歌壇のそういう面を担わせるのもなんか、そんなに期待するようなものでもなくない?とも思われ。
たじま 
睦月さんが数えたというやつ、私も見たことある気がする。総合誌ってやっぱりまだ大きい存在ですよね。書評とか評論という、作品以外のものをまとまって掲載するメディアとして。たしかに、総合誌の出版は会社!
でもでも、会社だと思うと、消費者として企業に倫理を求めるという意味では求めてもいいのかもしれないのでは?
ダメなところについてご意見することもあるし、もっとしてほしいことをご意見することもあるし。
うしお 
ああ、なるほどそうか。
たじま 
労働しているひとはいるけど、労働は会社でやっているので……。
個人ではないという点では、もしかしたら総合誌の方がそういうご意見をいいやすいし、取り上げられやすいのかもしれないですね。
うしお 
そうですね。コンプライアンスを求めていきたいです。ただちょっと心配なのは、ここまでの話がどのていど社会に共有されている倫理なのだろうかっていう点ですけど。しょうじきいまの社会を信頼できる理由があんまなくて……
ていうか睦月さんのやつ、WEBに上げてくれはってました。時評の執筆の世代・男女比が数えてある。

歌壇と数字とジェンダー――または、「ニューウェーブには女性歌人はいない」のか? - 睦月の記録

たじま
おお。データじゃん!
うしお

「(引用者注:過去十年の『歌壇』、『短歌』、『短歌研究』三誌の時評において、集計した399本の記事の)全体の比率で見ると、女性の執筆本数は過去十年間で154本、男性は245本となり、全世代をあわせても女性比率は4割を切っている。」
いや、この評論、数えるのもおおしごとだったと思うけど、全体としては、
「多くの女性歌人たちが、正史の中に確かな立ち位置を持たないこと」
「女たちが歴史から排除された原因は、誰も積極的には女たちのことを語ろうとしなかったこと、ではないだろうか。悲劇のヒロインやミューズや天女のような存在としてではなく、同じ時代を生き、お互いに競い合った、ただひとりの歌人としては。」

っていう話をしてたんですよね。
たじま
結論の方、めちゃくちゃ大事じゃん。ていうかいまわれわれがやったことでしたね……。
うしお
わたしこれ出たときに読んでなるほどなあって思ってたつもりだったけど、結局ぜんぜんダメじゃんということがよくわかりました。じぶんのコンプライアンス、、、
たじま 
え〜ん。なんか、共有はともかくとして、こうやって言っていくしかないのではないかとは思いますが。
うしお 
うん。
たじま 
これからも各々が自分の倫理を反省しながら語っていきましょう、というところでしょうか。
一月からいっぱいしゃべりましたけど、なんとなくわかっているつもりのことも、実は気合いをいれないと言葉にできていないということがよくわかりましたね。
うしお 
そうですね、評論書くよりはずっとてきとうな感じではなしをしましたが、それでも言語化は難しかったです。
たじま 
そうなの。言語化筋を使いました。またなにかの機会にこういうことをするかもしれないし、しないかもしれませんが、お読みいただいた方、ありがとうございました。
うしお 
ありがとうございました。
(われわれ二人でお話してるときは分かった感じになってたんですが、言語以外の何でコミュニケーションしてたんでしょうね)
たじま 
(なんだろ、気持ちかな?)
(ではまた)

 

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