第10回 共有結晶の話(後編)
(前回はBL短歌合同誌『共有結晶』について思い出話をしました。一回では語りきれなかったため、今回も引き続き『共有結晶』にまつわるよもやまばなしをしていきます。)
たじま
思い返すと2015年当時のわたしはオタクアカウントの人格としては「女オタク」より「腐女子」の方に親しんでいたけど、いまやその言い方もあんまり馴染まなくなっていて、そのことにも変化を感じます。
「推し活」の流行りもあり、『推し短歌入門』が2023年で、短歌的にはやっぱりターニングポイントですよね。「推し活」が結局はどんどんお金を使わせるときに使われる言い方になってきたことにはなんだかなと思っていますが。
うしお
どっちかというと講座がはじまったときのほうがインパクト感じたかもです。
たじま
たしかに!ゆにここカルチャースクールで2021年頃に「推し短歌」の講座がはじまったとき、変化だ!と思ったもん。ただ、そこで「共有結晶があんなに大変だったのに、いまは受け入れられるんだ?」という気持ちもなくはなかった。
それは「推し短歌」講座や、ゆにここカルチャースクールへというわけではなくて、それまで共有結晶がやってきたことをほとんど無視してきた「歌壇」的なものを改めて直視してしまうきっかけになったというか。
うしお
あの講座できる環境になってたのって、やっぱり運動体としての共有結晶が頑張ったことの上にあると思うんですよね。
読みの権力性の話で紹介した小原さんの「沈黙と権力と」、あの文章はわりとこの権力性に対してどうやって抗っていくべきか、やっていくしかない……という感じで終わっていたんですが、運動体を作ることって、場の権力性に抗う方法の一つとしてかなり的確だったよなと思って。つまり、ここではBLという軸を前提にして短歌を読んだり作ったりしますって宣言して仲間を集め、場を作り、その活動を明らかにする誌面まで作ってるわけですよ。『共有結晶』ってBL短歌や短歌のBL読みが載ってるだけじゃなくて、論考とか、近接した取り組みをしている作家を招いた座談会とか、資料とか、かなり誌面が充実してるじゃないですか。
(過去の『共有結晶』特集概要とかは、amazonで検索してもらうと在庫はないけど見られます | Amazon.co.jp: 共有結晶 BL短歌 )
たじま
う〜ん。短歌の運動体というつもりではなかったと思うけど、結果的にはそうなのかな。短歌という創造の術をもって作られるBLであり、同人誌文脈のアンソロジーの豪華さとして認識していたかも。
うしお
そうね。わたしはこの話の文脈では明らかに歌壇の人間なので、その視点で見ているとこういう把握になるって感じですね。短歌やってないときはやってないのであまり大きな声で歌壇の人間とは名乗りにくい感じもするのだけど……
たじま
あ〜〜。わたしはこころと書いてアカウントが二つある!なのよ。増えたり減ったりしたし。
ちなみに共有結晶はまぼろしの創刊号も持っています。いまは実家にあって、それで引用がすぐにできないんだけど。充実した誌面もだけど、イラストも装丁も、全部豪華でしたよね。創刊号のきらきらした表紙も、その後の号のすべすべした表紙も、持ってて楽しい本のつくりですよね。
「運動体」という考え方に関しては、短歌に限らないのかもしれないですね。ある特定の権威性がある「場」とはなにか外れた、抗うようなことをするとき、ひとりではなく仲間がいるのは心強いよね。「仲間」というと同調的かもしれないけど、ゆるやかなつながりとそれを確認できる場としての誌面があると、そのつながりを保てるのかも。
うしお
今になって思えば、あのときの摩擦って、たぶん問題系が二つ絡まってたのかなと思っており、ひとつはここまでも話してきた批評する側のホモフォビア/異性愛中心主義とミソジニーの問題だと思うんですが、もう一つには、そもそも批評してくれと頼んだことありましたっけ?という、歌壇帝国主義的な問題がさあ、あったんじゃないかと。
たじま
わははは!歌壇帝国主義!!!!!!!
うしお
いまとなってはもはや想像もつかないことかもしれませんが、あのころの歌壇の世界観って、いま歌壇村にいる知り合いの人たちと、これから歌壇村に帰順するはずの知り合い予備軍の人たちしかいなかったじゃないですか。だから歌壇とは違う世界観で短歌をやっている人たちにいきなりインターネットで何か言いに行くのも当然である、と。
たじま
あれなんだったんだろうね。牧歌的なインターネット?短歌をやっているからには「ザ・短歌」をやっているのだというか。「短歌ブーム」の後となっては嘘みたいだし、そもそもそれまでそれでやってきていたのがなんだったんだと思います。
うしお
みんな村人になって知り合いになるという世界観は消えたと思ってるけど、「ザ・短歌」的な前提はまだあってもおかしくない気がするな。「ザ・短歌」の範囲がいろんなひとの挑戦によって広がり続けたってだけで。
「これは短歌じゃありません」ってのがディスとして(たぶんいまも)言われうるのってそういうことでしょう。
たじま
村人になるであろうと看做す雰囲気が消えたのは、もはや人口として数量的に把握できないほどに、さまざまな場所や立場で短歌をとくに短歌のためではなくつくるひとが増えたということなのかな。
「ザ・短歌」概念はたしかに生き残っているし、中身が変化しながら残り続けるように思います。「ザ・文学」、「ザ・芸術」みたいな感じで。
その概念を更新するのが歌壇である的な態度もありますよね。いや、これまでとりあえず「歌壇」って言ってきたの、雰囲気で言ってるんですが。
うしお
歌壇ねえ、わたしこの話を文章にしようとしてたときに作った雑メモでいちおう雑定義つくってましたよ。
短歌のために短歌を作り、結社に所属し(これは石川美南さんとか永井祐さんとかあたりの時代からそこまでそうでもなくなってきたと思うけど)、新人賞に投稿し、総合誌に論作を発表し、歌集を出版する――という世界観を共有している人たちのコミュニティをとりあえず「歌壇」と呼べるんじゃないでしょうか。
たじま
へえ〜〜。そのルートに乗らなくても、そのルートをある世界観として共有しているというのはそうかも。文壇の派生概念なんだと思ってました。明治のやつ。いや、文壇ってまだあるのかな、それもよくわからないんですよね。
うしお
文壇のことは正直なにもわからないですが…… まあ髙良真実さんも言ってたけど、近代にできた誌面共同体なんだと思います。
そもそも歌壇というものは誌面共同体を中核としています。(中略)新聞、雑誌に、インターネットを介したパソコン通信や、メールリングリスト、掲示板、SNSなど基盤となる“媒介するもの“のあり方は時代とともに変遷し、あるいは多様化しましたが、資本主義がメディアという基盤を支え、メディアを通して共同体が成立することには変化がありません。(髙良真実「短歌ブームはだめなのか?」砂子屋書房 月のコラム)
こうやって髙良さんの定義と引き比べてみると、髙良さんが言ってるのは議論においてちゃんとした定義として使える「歌壇」概念で、わたしがさっき言ったやつは「ザ・歌壇」って感じですね。
たじま
世界観というのはあんまり定義には向かなさそうですね。たしかに誌面という物理的で外部的なものを要素とする方が、一般的にはなると思う。
うしお
でも少なくとも歌壇帝国主義とか言いたくなるときに問題になってるのは世界観だと思うんですよ。
論文を書くなら髙良さんの定義を採用したいけど、いま話したい問題は世界観の衝突というか押し付けの話なので
たじま
いや、どうかな、でも、その世界観って総合誌ありきすぎない?総合誌って短歌総合誌のことですが。いま言ってて急に総合誌が通じるか不安になっちゃった。総合ってなんだよ。
うしお
それはそういうものなんじゃない? いま引いた髙良さんの記事も、そもそも短歌/歌壇って出版資本主義ありきですからね、という話をしているので。
たじま
そうなのかな。メディアへのアクセス問題やメディアからの疎外という話もできるような気がしたけど、まあ、出版資本主義のことは広がりすぎになりそうなので置いておきます。
話を戻すけど、「歌壇帝国主義」とここで言ってみたふるまいというのは、さっき言ってた「短歌のために短歌を作り……」という世界観の共有範囲≒領土を拡大しようとするようなふるまいって感じかな。髙良さんの記事の中で「短歌ブーム」のあり方を否定している論調にも通じそうですね。
これわたしとうしおさんとのなにもかも雑な話だから言い方に乗ってるけど、植民地主義による実際の侵略や虐殺が進行しているなかで比喩的に帝国主義というのってちょっと微妙なところはあります。
うしお
そうですね。つい雑な言い方しちゃうけど適切な表現ではない。帝国主義と言いたくさせるのは、この世界観が共有されていないところで短歌をやっている人たちが今後征服・教化されるべき人たちと見なされてきたあたりですね。
たじま
「啓蒙」って感じね。求めてないということを想定しておらず、拒まれると戸惑うというところも「啓蒙」かも。
あれほんとなんだったんだろ。短歌やってるひとが少なかったから?本当かなあ?
うしお
わかんない。でも実際わりとこれまでのところでは、歌壇がイメージするザ・短歌の範囲を超える文体が出てきても、結社に入らず同人誌やインターネット上で活動する歌人が増えてきても、なんだかんだいろんな議論なり時間経過なりを経て、その成果がいつのまにか歌壇の共有物になってる、みたいなことはわりとあった気がする。
例えば永井祐が出てきたときはめちゃめちゃ叩かれてたりとか、枡野浩一は意図して歌壇に与さないようなかたちで活動したりとかしているわけですけど、結局彼らの文体が口語リアリズム短歌のOSを作ったと言える現状になってるわけじゃないですか。
見慣れないものを見つけるたびに、それらを批判したり”説明”を求めたりして歌壇の文脈に位置づけようとするのは歌壇のいつもの動きって感じがする。共有結晶に対して批判が出たのもこの意味ではいつもの展開ってかんじだし、それでいつの間にかその成果は歌壇のものみたいになってて総合誌でBLと短歌の特集が組まれるようになってるのもいつもどおりのやつというか。
たじま
う〜〜ん、いや、それはわからんかも。ザ・短歌の範囲を超える文体や作品は単に無視されてきてるんじゃないのか?と思う。
たまたま残ってきたものがあるかもしれないけど、それをいつもの展開っていうのは、なんだろう、ちょっと違うけど、生存者バイアス?
うしお
あーそうかも。どちらかと言えば、いま当たり前の資産みたいなことになっているものでも、その登場当時にはめちゃめちゃ批判されてたということもよくある、と言うべきだったかも。生存者バイアス。
たじま
まあ穂村弘などなどを思うとそうかもしれない。、たまたま誰かが批評して、誰かが引用して、誰かが後続的作品をつくったという場合もあるし、たまたまじゃなくて中城ふみ子の例もあるか。。。
いま歴史に残っているひとを振り返ってみると最初は受け入れられなかった、ということは言えるけど、そんなによく知られていないひとを振り返る機会はあんまりないですし、歴史に残っているとされる対象がすでにさまざまな偏見によって選別されているからこそ、女性ジェンダーという点で振り返るというのが『をとめよ素晴らしき人生を得よ』ですよね。
うしお
うんうん
たじま
ごめん、話そらしちゃいましたね。これは結局「歌壇」の歴史観の強化の話になってしまって、「歌壇」の教えたがりっぷりはなんなん?というところはわかんないや。
人間ってそういうところがあるってやつなのかな。集団に属すると同質性を目指すようになる性質がある的な。
うしお
なんとなくわたしにはそういうものに見えてるってだけで、理由とか分析とかは手に余りそうなので無理して考えたことはなかったですね。わたし、興味があるのは概念とか論理とかばっかで、社会の動態とかの複雑系のことは別にって感じで……
たじま
わたしはそういうふうになる理由とか結構興味があるかな。でも与太社会学とかウソ心理学に陥りがちでもあるだろうからあんまり深入りする気はないんですが。ただ、集団が排斥的になりやすいとか、そういうことを知っておくだけでも、自分がしていることは「それ」ではないか?と我が身を振り返る可能性もあるので。
うしお
しかしながらわたしとしては、新しいものが出てきたときに、それについての議論が出てくるという現象自体はわりと気に入ってたんです。歌壇が短歌に関係することがすべて自分に関係ある話ですみたいな態度をとってることも。
たじま
うんうん。
うしお
でもこれって、歌壇という制度を承認していることが大前提っていうか、短歌のために短歌を作ってるし短歌のために短歌を論じているし、総合誌に載るかどうかはともかくとして、自分も作品なり議論なりによって歌壇に参与する意志があってはじめて肯定できるやつだったよなあ、と。
たじま
あ〜〜。
うしお
だからこそ共有結晶に対しての批判って二重に不当だったと思って。新しいことをやってる人や集団に対していきおいあまって不当よりの批判が出るということ自体は(それも大概どうなんだという話ですが)歌壇あるあるイベントだって認識なんだけど、でもそれを、歌壇に参与する意志がなく、単にインターネットとか、自分たちで作った仲間とBL短歌をやってたひとにぶつけに行ったのがマジでよくなかったよねと。
わたしが歌壇においていろいろ議論がありうることを肯定するというのは、不当なことを言う人がいたら反論しに行くし、自分が不当なことを言われてもなかまも反論してくれるだろうと思ってるということまでセットでの肯定なんですよ。これが例えば、最近の学生短歌は~とか若手の歌は~みたいな枕詞で雑語りされたらふつうに反論しにいったわけで。でも当時のわたしは、歌壇が共有結晶に対してなんか言いたがること自体は歌壇あるあるに見えてたのに、同時に共有結晶のことは歌壇のメンバーとして見てない的な意味で関係ないと思ってて、そこで言われていることが正当なのか吟味しようと思ったり、その批判は不当ですよって反論する側に立とうとも思うこともなかった。
たじま
おお、そうなんだ。たしかに反論しにいくのがセットなのは、さっき言ってた「歌壇」に参与する意志ありきですね。
なんか話を聞いているとうしおさんって「歌壇」にいる気持ちがある方だったんですね。
うしお
なんでかわかんないけどなんでかそうみたいなんだよね。もしくは、ふつうにわたしが論戦すきということもあるのかもしれない。コミュニケーション意欲が低すぎるからやらないだけで、議論で勝負みたいなこと自体はまじですごく好きぽくて。本を読みつつ著者の議論が本当に成立してるのか点検したり、いやそれはちゃうんちゃうって反証を組み立ててるときにかなりテンションが上がります。
たじま
論作両立者だなあ。まずインターネットで知らん人に知らん論理でなんか言われてその土俵に立ってあげる義理ってないけど、共有結晶の誌面や参加者の方のSNS投稿はそれでもその土俵で応答しようとしていて、ずいぶん苦心されていたと思うな。
一方そのころ学生短歌会で短歌をやっていたわたしは、この「歌壇」?短歌のひと?短歌クラスタ?のやっていることをなんとかしようとしないでいいのか?でも、どうやって?こわいしな……という感じだったかも。
うしお
そうだね。わたしは誰に何を言われても怖くないタイプなんだがみんながみんなそうであるわけではないということは認識しておきたいと思っています。当時のきょうたんってわりと戦闘的っていうか、反論は当然するし場合によってはこっちから議論ふっかけにいきますぐらいのテンションの人も多かったと思うけど、よく考えたら、趣味と言える領域において論戦ウェルカムな態度が自然になってるのも変な話ですよね。
たじま
そうかも。わたしもだいぶ呑まれてましたけど、あの頃(2015年前後)の学生短歌会ってそこそこ特権的な立ち位置でもあったのをあとから思いますね。未熟さと情緒不安定さによっていろんな迷惑をかけまくったなあということも思い出すのであんまり詳細に思い出したくないこともあるんですが。
うしお
そうだっけ? たじまさんがかけてた迷惑についての記憶はありませんが……
当人からすればただ大学のサークルに入っただけであるのだけれど、じっさいもんだい特権性にはかなり守られて来たなと思います。例えばBL短歌やってるのが学生短歌会だったらあれほど見下された態度は取られなかったんじゃないかなとか。
たじま
それはわからんけど。当時の学生短歌会ってきょうたんとわせたんだけだった時代から段々ほかの大学にも短歌会ができてきた頃とはいえ、国公立大と有名私大が中心で、そこそこ高学歴という特権性もあったように思います。実態としてはインカレサークルなので学生として所属している大学はさまざまだったりしましたが。「特権性の自覚」という概念もまだあんまり浸透していない頃、やっぱり先鋭化しやすいところはあるでしょうね。
一方で、心理的安全性を保った場で、ひと月に何度も歌会をして自分の意見を受け止められたり、ひとの意見をとにかく一旦受け止める経験があったのはいいことだとも思う。青年期の心理発達に効きそうじゃんね。運動体になりうるという側面もありますよね。
うしお
うんうん。なぜかいまなお歌壇のひととしての自我を保持し続けていはいますが、これもきょうたんが育てた自我だなと思います。
たじま
思い出話になっちゃった。いまの大学短歌会のことはよく知らないので、さっき言ったのはわたしの振り返って思うにという感想です。それにしても、だいぶ話してつかれてきたのでこの辺で終わろうか。
うしお
そうですね。いまのお若い人たちのことはいまのお若い人たちにおまかせしたいです。
たじま
あとはまかせたという気持ちもありますが、これまでのことは彼らにまかせず、よくなかったよねということはいつでも振り返って言っていきたいものですね。
共有結晶の参加者の方々は本当にすごかったけど、いろんなことを言われてすごく傷ついてもいたと思うので、申し訳ない気持ちがずっとあって、それをちょっと話せてよかったです。
うしお
わたしもこの話ができてよかったです。ありがとうございました。
たじま
これ、そのうち散文にするんですか?
うしお
え~しない、かな…… ここでお話したことでもって代えたい、手持ちメモに書いてた論点もぜんぶ放出したし。でも、ちゃんと短歌の歴史に刻んでやるぞという意志のもとちゃんとした場所にちゃんとした文章として書き残すべきなのかな? いまわたしが話したことと同内容にしかならんのだが。
たじま
う〜ん、よもやまはそれこそ引用はしにくいかもね。 じゃあそんなところで。
うしお
はい。それかはてなブログがサ終する日が来てしまったら再録本でも作ります?
たじま
あ〜〜!サ終。ありうるな。そのとき考えましょう……。
おまけ・年表
2012.11 『共有結晶』創刊号
2013.11 『共有結晶』vol. 2
2014.11 『共有結晶』vol. 3
2017.5 『共有結晶 別冊・二次創作短歌非公式ガイドブック』
2017.11 『共有結晶 別冊・萬解』 2018.11 『共有結晶』vol. 4
2020.6 『かばん』特集「短歌とBL」
2020.7 堀あきこ、森如子編『BLの教科書』有斐閣
2020.9 『ユリイカ』特集「女オタクの現在」
2021.9 榊原紘「推しと短歌」(ゆにここカルチャースクール)
2023.10 榊原紘『推し短歌入門』左右社
2025.1 『現代短歌』No.107 特集「BL」

第9回 共有結晶の話(前編)
たじま
こんばんは。やるぜ!共有結晶回!
うしお
よろしくお願いします。
たじま
前の回の終わりで言ったとおり、「共有結晶」について話します。
説明は『BLの教科書』の岩川ありささんによる「第7章 「BL読み」という方法」によくまとまっているので、参考にしつつ。
BL短歌合同誌「共有結晶」というのは、2012年頃にTwitter上で「#BL短歌」というハッシュタグが広まるムーブメントがあり、そのなかで発行された本で、4号まで発行されました。
参加者は号によって流動的で、もうハンドルネームを変えてらっしゃる方もいると思うので、今回は作品単位でとりあげていくというより、あの頃の共有結晶を思い返してよもやまばなしをしていければと思います。
うしお
ムーブメントがあったっていうのは、いわゆる歌壇のなかでというんじゃなくて、BLに関心があるひとのあいだでのことなんだよね。だから摩擦になったという話なんですが……
『共有結晶』に書いてあったこのへんのはなしを読むとふんいき想像しやすいかなと思います。BLの教科書では2012年ですけど、2011年説もあるようですね。
当然ながら、先行する短詩作品にもBLと呼ばれる要素を持つ作品、そういった短詩を書く作者は存在していましたが、#BL短歌タグは、特に誰からも承認されず、「BL」と呼ばれる創作物を好むひとびとのなかから発生したものでした。(黒澤蜜「BL短詩への批判とはなんだったのか」『共有結晶』vol. 4)
二〇一一年、#BL短歌 というタグがツイッターで流行りはじめた。流れてきた誰かのツイートでタグが使われているのを見て、これをやりたい!と思い、新しいアカウントを作ってBL短歌を始めた。#BL短歌は祭りのように盛り上がって、そのうちにBL短歌タグの発案者のあやさきさんを中心として同人誌を出そうということになった。(佐々木紺「特集 BL短歌とわたし」『共有結晶』vol. 4)
たじま
そう、インターネット上でBL創作や二次創作をやっていたりする人々の間でですね。
せっかくだから読み返したんですが、『BLの教科書』おもしろかった。最近は中国語版が出ているそうです。
うしお
まじか(実はわたしは共有結晶のとこしか読んでないですね) 。
たじま
ほんと?最終章の「BLとナショナリズム」はいまこそ必読ですよ。
まあ、なんでこんなに『BLの教科書』を読め!ってなっているかというと、読み返したらもう全部書いてあるじゃんと思ったんですよね。
BL短歌を通して主に女性である人々(女性以外もですが)が表現手段を手に入れジャンルとして成熟していったこと、既存の短歌をBLとして読み直す「BL読み」がクィアリーディングにつながるものであること、BL短歌の展開としての二次創作短歌がアダプテーションの批評性にむすびつくこと。
ぜんぶ本当にその通りで、いや〜すごい!と思いました。
『BLの教科書』のなかでは、それまではBLの歴史や多様化の話をしていて、この章でクィアリーディングという批評の分野の話になり、とくにBL短歌という形を世に問うた共有結晶のやったことは、フェミニズムとクィアリーディングの実践として捉えうる、ということなので、あんま短歌の側の話はしてないんですよね。
なので、短歌の側?からももっと話をした方がいいと思っているんですが。。
うしお
はやい、はやいぞ、BLに何の関心もなかった頃のわたしにも分かるように話してくれません?
というかその頃のわたしのために書こうとしていた散文のメモがあり、これは歌壇の人間という立場から書こうとしていたメモなので、これを見直しながら、私なりに話を敷衍してみますね。
書かれてた論点のなかで特にポイントなのは、BL読みがクィアリーディングの一形態として捉えられることだと思うんですよね。小原奈実さんの「沈黙と権力と」(『短歌』2019年10月号)の話は好きなのでひゃっかいぐらいした気でいるんですが、ここで問われているのは、短歌を読むときに何を自明の常識として/何を非自明の事柄として扱うのかということを区別する権力の問題なんですよね。
たじま
ええ〜〜。それはそうだけど、クィアリーディングがすっと出るひとにならさっきのははやくないでしょう。
うしお
そのころのわたし、クィアリーディング知ってたかあやしいし、もし知ってたとしても、そういう”偏った”読み方をわざわざ志向しようとする実践の問題意識がどこにあるのかってことは確実にわかってませんでしたよ。
たじま
「その頃」って、BL短歌隆盛期ってこと?2012〜2016年くらいだっけ。うしおさんってそんな感じだったっけ?
うしお
そうですよ。わたしがユーリオンアイス(2016年)にめちゃはまりしたのが2017年なので。
いまのわたしはユーリオンアイス以後の人生を生きてるのでそれ以前のことはちょっとおぼろなんですが、この世界で何が普遍で何が偏向とみなされるかということに関する問題について考えたことはなかったと思います。なぜか社会詠には当時から関心あったんですけどね。
たじま
そうなんだ。おもしれ〜〜。
いまや2025年も終わりに近づいているので、フェミニズムもジェンダースタディーズもクィアリーディングもその頃よりそれなりに広まってきている感じはします。
BLに何の関心もなかった頃のうしおさんに言おうとすると、もっと詳しい言い方が『BLの教科書』になるんですが、、ただ権力の問題というのはその通りですね。「ふつう」に読むとマジョリティに寄った捉え方になるというやつ。
うしお
われわれは京大短歌において短歌をやり始めたわけですが、社会的にもマジョリティの側にいて、なおかつ、文化的にもわりと均質な仲間うちだけで短歌をやってると、読みがはらむ権力性みたいな問題には直ちに直面しないわけなんですよね。
たじま
クローズドで安心できる場所で好きに喋れるサークルっていうのは、それはそれで必要な空間ではありますけどね。
うしお
だから、例えば共有結晶まわりのツイッターで言われてたりした(というおぼろげな記憶なんですが)、相聞が男女の二者関係として解釈されてしまうとか、歌の内容から作者の実人生にまで言及されてしまうみたいなことって大学短歌会で暮らしてるとまずなくて、むしろ、勝手に男女のジェンダーを読み込もうとする評に対して、それは歌に書いてないあなたの考えですよね? と指摘する人たちがすでにいて、わたしはそれで勉強させてもらったって感じですらあったから、共有結晶のひとたちに問題化されていた権力の抑圧を被ってこなかったわけなんですよ。
たじま
う〜ん、そうかな。クィアリーディング自体は、たとえば既存の作品が男女の二者関係として解釈されてきたこと自体への異論とか、異性愛中心主義的な作品への批評も含むものだと思っているので、うしおさんの話してる「権力の抑圧を被ってこなかった」はわりと狭い意味での抑圧なのかも?
うしお
そうですね、そのころのわたしにもかろうじて認識し得た記憶がある(しかし自分に関係ある問題として捉えることはしていなかった)トピックがそこというかんじで。
たじま
ぼんやりしてるなあ。まあわたしもそのころの記憶があんまりないですが。十年一昔ですね。
大学短歌会の歌会の場で男女の二者関係として解釈されてしまうことがなく、そのようなことは批判的に扱われていたからといって、異性愛中心主義的なものが克服されていたというわけではないのでは。
うしお
だよね。だから異性愛の短歌はふつうのものであるのに対して、同性愛の短歌はわざわざ特殊なことをやってるように見えるっていう世界観だったと思う。
たじま
そういうことかも。「ふつう」を前提にしようとするし、その「ふつう」を普遍的なものだと思いがちという感じ。
デフォルトが異性愛で、同性愛は有徴なものであることが揺らがないのは、つまり、異性愛中心主義だよね。
うしお
こう考えてみると、あのころBL短歌がなんでBLなんですかって言われまくってたのって、いつかインターネットでチェーホフと銃のはなしを出しながら、物語世界にクィアな登場人物を出すなら必然性がなくてはっていう話に、いや現実世界のクィアな人間がクィアであることに理由なんてないんですが、クィアじゃない人間がクィアじゃないことにも理由がないのと同じように……ってなってた話と同型の出来事だったわけですよね、今になって思ってみれば。
たじま
そうですねえ。
とはいえいったん、共有結晶とその頃どう出会ったかの話からしましょうか。言うてるわたしたちはなんなんだというのを話しておきたいかも。
うしお
そうだよね。やっぱり当時どういう立場でものを見ていたかという話と切り離せないと思うので。
わたしが京大短歌に入って短歌をはじめたのは2013年なんですけど、一回生の終わりぐらい、2014年に短歌用のツイッターアカウントを作って。そのときはまだそこまで短歌でツイッターやってるひともたくさんじゃなかったので、なんか短歌まわりで話題になってることがあったらなんとなく目に入る環境だったんだよね。いまもそうかも知れないが、大学生なのでツイッターよく見ていたという点では余計に。
それで、もうその頃すでにそんな感じだったと思うんですけど、なんか散発的に歌壇村で短歌をやっているひととBL短歌をやっているひととの間に摩擦が起きてるんだな、ふーん、ぐらいの認識があったって感じでしたね。そしてその頃のわたしはこの話に特に関心がなかったので何も言わなかった、と。
たじま
Twitterってほんとにそういう場所だったよね。わたしも初めはTwitterからでした。
うしお
摩擦って言ってるのがどういうやつだったかというと、例えば、BL短歌のハッシュタグで作られている短歌が拙い/なぜ短歌においてBLをやろうとするのか(短歌は短歌のために作られるべきである)/なぜ既存の短歌に対してわざわざBLという読みを持ち込むのか/BL短歌として作られている短歌を見てもBLに読めない……とかですかねえ。
主に歌壇のがわをフォローしていたわたしのタイムラインで観測した覚えがあるものは、ですが。
たじま
「(短歌は短歌のために作られるべきである)」はさすがに言外のものだったかもだけど、テキストに沿って読むべし/BLはわざわざそう読んでいるという論調に関しては、わたしも身に覚えがあります。そう思ってるところ、あったよ。
うしお
いや、書きぶりは忘れましたけど、短歌は短歌のために作られるべきである、なんか見覚えありますよ。というかわたしはわりと短歌のために短歌を作るからはじめたので、かなり長いことそういうものだと思ってました。
たじま
まじ?こわ〜〜〜〜!それは、こわいよ。そんなんだったっけ?わたしとうしおさんってよく考えたら一年の差があるんですよね。
わたしは2013年頃、大学に入るまえにTwitterのオタクアカウントを作って、共有結晶に参加している方の投稿を見ていました。その流れで短歌のネットプリントのことを知って、地元の本屋(いまはなきちくさ正文館!)のネットプリント特集で、たまたまきょうたんの笠木拓さんとわせたんの山中千瀬さんのネットプリント「金魚ファー」が展示されていて、そうしてわたしは導かれるようにしてきょうたんの門を叩いたわけです。
短歌アカウントとオタクアカウントを分けていたから、リアルでは「短歌」寄りのひとびとと歌会をしつつ、一方でインターネットでハンドルネーム同士のつきあいをしているオタクでもあった。なので、当時の「摩擦」については、アカウントが二つある!の状態でした。
うしお
うんうん
たじま
でもまじめに短歌をやるぞ!ってなったのは2015年くらいで、わたしの自我もそのくらいの頃にようやく目覚めてきたものの、その「(短歌は短歌のために作られるべきである)」的意見と、いやこわ…なんなん?という気持ちを自分のなかでどう捉えたものかわからなくて、結局なんにも言えなかったなと思っています。
共有結晶の参加者の方は、歌壇側の投稿に何度か答えていたのに、でもまた別の機会に同じような話が持ち上がって、ということがあった、と思う。「歌壇」というより「短歌クラスタ」だったかもね、当時の言い方って。
この「側」も、SNSなので、曖昧ではあるよね。
うしお
実際あとになって『共有結晶』買ってみると、さっきのところで挙げたような短歌側からの"素朴な疑問"ってぜんぶ答え書いてあったんだよね。わたしが持ってるのはvol. 2からですが。
「BL読みできる短歌」をめぐる実践を、クィア・リーディングの一形態として捉えるとき、この「読みのモード」は、ひとつの問いを突きつける。それは、「彼ら」を見ている「私」が、どのようにして、この世界の規範と対峙しているのかという立ち位置(ポジショナリティ)の問題だ。BL読みするという営みは、私たちに、自らが生きている世界の中で、何が排除されていて、何が寿がれているのか知ることを要求する。(岩川ありさ「BL短歌のふるえ方――クィア・リーディングとしての「BL読みできる短歌」」『共有結晶』vol. 2)
たじま
そう、そうなのよ。だからSNSで同じ話が何度もされてて、あれは、見てるだけでも疲弊!って感じだったよ。
うしお
同じ話が繰り返されているということはわたしは把握できてなかったんですけど、なかなか疲弊が生じてそうな話だなという認識はありました。
別冊に『二次創作短歌非公式ガイドブック』っていうのがあって、そこに二次創作短歌について関心がある層を目当てにインターネットで募集されたアンケート結果も乗ってるんですが、その中にかなり当時の雰囲気伝わるかなって回答があるのでこれをみると往時の摩擦がまじやばだったことが分かると思います。
「短歌についての基礎的な知識が不足している方をTwitter上でよく見かける。特に理由もなく句ごとに一字空けをする人を見かけると短歌をなめられているようで非常に腹立たしい(生理的に受け付けないので余程のことがない限りは二次創作系の短歌タグで検索をかけないようにしている)。短歌の入門書を読めとは言わないが、せめて歌集やNHK短歌のテキストくらいは目を通してもらいたい」
「詠むのは好きにすればいいけれども、「なぜ二次創作するのか」「なぜ短歌でなければならないのか」という問題に対して真摯な姿勢で取り組んでもらいたいですね。あと、評価されなくても泣かない(二次創作とはそういうものだから)」
これわざわざアンケートに書きに行くのやばくないですか?
たじま
やばすぎる!!うるせ〜〜〜!!
うしお
これに対する編集部回答はまじで大人の対応で、
「まずはお二人とも、アンケートへのご協力ありがとうございます。短歌に真摯に取り組んでいらっしゃる方だと思います。
こういったご意見が特に短歌ではよく見受けられることについて、疑問が先にたってしまいます。なぜ短歌の基礎知識を得ることが義務だと思うのでしょうか?例えば絵ならデッサンや色彩、道具の知識など多くの学習がもちろん必要です。私の絵の勉強を多少しましたが、それらを持っていなくても描きたいものがあって描こうとしている人に腹を立てたり、バカにしたり、勉強しろということは全くナンセンスです。……(後略)」
『二次創作短歌非公式ガイドブック』が2017年でさあ、共有結晶との摩擦って年々マシになっていわゆる歌壇的な側から参加する人も増えてきて、って経過だったことを思えば、これって多分氷山の一角というか多少は摩擦がマシになった頃でさえこんなだったという空気感が保存されてるだけで、こういうことを直接言いに行く人とかエアリプする人とかはいっぱいいたんだろうなということがよく分かりますね。
たじま
うるせ〜〜〜!!!!!の返事をしなかったのすごすぎますね。うしおさんは「摩擦」って言ってるけど、そこから連想する意図しないすれ違いといった雰囲気じゃなくて、たしなめる的な上から目線の攻撃性がありますね。
うしお
そうなの。自分のほうがえらいと思ってないと言えないセリフですよね。
たじま
そういえば『BLの教科書』のなかでは、「短歌とBL短歌の間には緊張関係もあった」ということにも触れられていました。引用するね。「言語化することが困難であった出来事を言葉にしはじめた人々の言葉に、「言いよどみ」や「とりみだし」があったとしても、問題なのは、その声を聴きとることができない批評の枠組みのほうなのではないだろうか。」と。おっしゃる通りですね。
あれって典型的なホモフォビアとミソジニーの複合体だったと思っています。
うしお
いやそれ、そのはなしもしたかったんです。そもそも昔のインターネットって、女オタク文化の馬鹿にされかたやばかったじゃないですか。
『ユリイカ』が2020年に「女オタクの現在」って特集をやったあたりがちょうど潮目の変わり目って感じで。
たじま
昔っていうか、まあ昔ですね。どうなんだろ、わたしはそれ以前から、フェミニズム運動とそれに伴う女性のカルチャーのエンパワメント的な雰囲気は感じていたように思うけど、それってわたしが『マッドマックス怒りのデス・ロード』に夢中になったのが2015年だから、そういう見え方をしていただけかも。
うしお
わたしもユーリオンアイス通って女オタクの文化を観測しはじめたのが2017年終わりからとかなんで、よく考えてみたらわたしには潮目の話ができるほどの材料がないですね。観測開始時期とか地点とかによりそう。
たじま
潮流とか雰囲気って後から語るとそうなるものかもね。
(次の記事へつづく)

第8回 『オメラスへ行く』/女の敵は女?の話
たじま
こんにちは。
うしお
こんばんは?
たじま
こんばんはか。この前の回の編集作業をしていて気がついたんですが、われわれは自己紹介から始めるべきだったんじゃないでしょうか? もう短歌の人はだいたい知り合いみたいな牧歌的な時代は終わったんですよ。
うしお
そうでした。流れで話し始めちゃいましたね。
たじま
ということで、まずはこの「現代短歌よもやまばなし」について説明のページから
「このブログでは、うしおとたじまが、現代短歌や最近見たものや読んだもの、それぞれの関心に寄り道しながら、よもやまばなしをお送りします。」
https://ymym575.hatenablog.jp/entry/2021/01/11/200142
わたし、たじま(田島捺)はいまは未来短歌会という短歌結社に所属しています。短歌をはじめたのが2014年で、うしおさんと知り合ってからも11年ということになりますね。
うしお
じゅういちねん……! いやあびっくりしちゃいますね
わたし(牛尾今日子)は、短歌はじめたのが2013年、いまは羽根と根という同人誌と八雁という結社に所属しています
↑ のページに書くべき2025年のトピックを考えてるんだけどなんにもなくて困ってます。分析系の哲学は、まあ、趣味ってことになるんだと思うけど、元気なら勉強してだめなら床で寝るぐらいしかしてないですよここ数年は。
たじま
あらあ。2025年のトピックとしては、わたしはインテリアに興味が出てきて、デスクライトを買ったり、とくに用もなくインテリア用品ショップを見たりしています。
そうだ、今日は高円寺に行って雑貨屋をうろうろしたんだけど、古本屋や独立系書店もいっぱいありましたよ。短歌の本もあって、上坂あゆみさんとひらりささんの『友達じゃないかもしれない』刊行記念冊子の『友達じゃないかもしれないふたりの短歌トーク』をゲットしました。
うしお
おお。文フリみたいですね。
たじま
うん、今年の五月の文フリ合わせで出したみたいですね。ふたりのトーク形式で、よもやまとも形式が近く、内容もおもしろいけど編集の仕方も参考になるなあと思いました
なんと、話の切れ目で小見出しをつけてるんですよ。ちゃんとしてる!
うしお
えらーい!!!
たじま
われわれもした方が親切だろうか……自分たちが続けられるよう、なるべく編集に負荷がかからないようにしようってやってますからね……
うしお
でもまあ特にスマホとかで見る場合あんまり可読性よくないかもなという気はしてるので……付けられそうなときは付けますかね……
たじま
やれそうな内容のときはやりますか。
この冊子は最近印象に残った歌を5首持ち寄って話をしている感じでした。上坂さんの歌集を出してからの歌の作り方の話や、ひらりささんが短歌をつくりはじめたときの話もあり、よかったです。
『老人ホームで死ぬほどモテたい』という歌集のあと、もう第二歌集は「老人ホームでモテなくてもいい」にしようかなって思った話とか。
おおもとの『友達じゃないかもしれない』については、瀬戸夏子さんのポッドキャストで紹介されていて、おもしろそうだなと思ったんですよね。
うしお
ああ、瀬戸さんのポッドキャストね。なんとかポッドキャスト聞くぞって感じになれたときにちょっとずつ聞いてまだ序盤ですが…… ひとがコンテンツの話をしているのを聞くのって楽しいですよね。思ったんですが、もはやわれわれにも出店すべきオンライン短歌市はないので、強いてよもやまの看板に短歌を掲げなくても、近況摂取コンテンツの話をしていく感じでもいいんじゃないですか?
たじま
それはそうかもしれないけど、それは誰が読むんでしょうね……?
うしお
それはほんとにそうですね。ぜんぜんわかんない
たじまさんが聞いてくれるからどんどん話しちゃってるけど、わたしに素で近況報告をさせると男性哲学者が書いた本の話ばっかりしてしまうということに気づきました。
たじま
よもやまやるなら前回の反省(参考 https://ymym575.hatenablog.jp/entry/2021/03/06/200000 )を踏まえて、女性歌人やフェミニズム的な作品の話もしたいかな。
最近のわたしの関心事には、クィアリーディングとか社会詠の話もあるかも。社会規範への異議申し立てがある作品にぐっとくるし、自分でもなにかやり方がないだろうかというのはずっと考えてるし。
《穂崎円『オメラスへ行く』》
たじま
それで最近おお〜!と思ったのは、穂崎円さんの『オメラスへ行く』でした。
うしお
読みました読みました。オメラスってル=グウィンのなにかじゃなかったかしら、ぐらいの認識だったんですけど、栞によれば「オメラスから歩み去る人々」という、ひとりの子どもの不幸によって繁栄を享受している都という設定のSF短編であるみたいですね
タイトルからして引用なので、知らない固有名ばっかり出てきたらどうしようかなという不安もあったんですが、読んでみたらそんなことはなく、詩のことばをつかいながら現実と相対しようとする感じの歌集でしたね。
たじま
そうなんだよね、現に起きてしまっている苦しみや理不尽に覆い被さるようにして、伝承とかフォークロアとか、物語みたいな手触りのある言葉が表れる感じがする。
わたしはⅡ部の最初の連作「カタコンベの魔女」がよかったです。内容としては、どこかで災害級の地震があり、そこで亡くなったひともいて、一方でこの連作のひとはなにか役所的な手続きをしているのかな。
〈パスワード誤るたびに預言書の地震(なゐ)のごとくに画面は揺れぬ〉
〈書棚にも水際のありてあふるれば鳥野辺のごと積まれゆくのみ〉
Ⅰ部は口語で、この連作のあとの連作のいくつかは旧仮名遣い・文語まじりなんですが、やっていることに対してはたしかに文語が合っていて、「預言書」みたいな言葉の世界観でしか語れないことだなと思った。
同じⅡ部の「アノニマス」も良かった。
〈邪神呼ぶ儀式のごとく腰を折り机を巡り資料を組みぬ〉
この連作はデモや内部告発にも触れられていて、社会情勢に「邪神」という言葉の持つ世界観とが重ね合わせられている、というのかな。「七月」はガザの詩人の引用もあり、こういうやり方があるんだ!と思いました。
うしお
わたしは最初の連作の「オデッセイ」がすきでしたね。
〈ホールケーキ切り分けたのはどなたの手 国境線を渡る鳥たち〉
〈確かめる権利があると言われては身体の中を塗り潰されて〉
〈身体にはたましいがありたましいに金の耳標を付けたのはだれ〉
わたし自身の関心に引き寄せすぎた読みかもしれないけど、岡真理のノーマンズランド/緩衝地帯/難民キャンプの話を思い出したんです。
パレスチナ人をはじめとした難民のことが論じられていて、ちょっと長いですけど、岡真理どんどん読まれてほしいと思ってるんで引用しますね。
いま、この世界にあって、国を持たないということはノーマン、すなわち何者でもない者、人間ならざる者であることを意味する。国を持たざる難民とはノーマンなのだ。国民国家の空隙に落ち込んだノーマン。彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。「法」も「人権」も、それは「人間(マン)」、すなわち「国民」の特権なのだということ。国民でない者は「人間」ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的(パフォーマティブ)に表明している紛うことなき事実であり、その事実が――彼らが「国民」ではないために「人間」ではないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実が――露わになるのが、ここノーマンズランドだ。(岡真理『ガザに地下鉄が走る日』(2018)
国民国家をはじめとした権力の支配に服さないと「普遍的人権」が配分されないこの現実というのか、権力的な諸制度に規定されざるを得ない人間の生、みたいなところへの意識がひびきあってる気がして。
たじま
「オデッセイ」もよかったです。「国境線」への違和感ですよね。
わたしがなんとかして自分のやり方を見つけなきゃなんにもできないなと思いはじめたのは、いわゆる「ウィシュマさん名古屋入管死亡事件」が大きいということを思い出しました。わたしは名古屋にいて、港の方にある名古屋入管の建物も知ってはいたから、事件を知ってゾッとして。で、異議申し立てとしての短歌をやろうとしてはいるけど、とにかくやりながらという感じになってる。
だから、感想がこういうやり方があるのか!になるんですが、、
うしお
わたしも作りながら考えるしかないなの気持ちですが、こういうやり方があるのか!のところ、もうちょっと詳しく教えてもらってもいいですか?
たじま
現に起きていることを古い言い方や異物のように描き、独自の視点で表現するのは技法としてあるじゃないですか。
でも、『オメラスへ行く』の場合は、起きていることを物語に食い込ませていくような……逆かな、起きていることが過去の預言書や伝承にオーパーツのように現れた印象……
もしかすると、マジックリアリズム的って言えるのかな。そういうことが起きるんだなとぬるっと受け止められる感じが。もちろんそう受け止めている作り手の考え方にも思い至るんだけど、「アノニマス」とかは連作の流れが強いから、「邪神」みたいな言葉が、そうたとえられるのも当然というように入ってきて、受け入れてしまう。
いま「アノニマス」を読み直してましたが、この連作って赤木俊夫さんの話か。(森友学園の土地売却の文書改竄に関わり自死された方です。)追想していく感じですよね。
うしお
うーーん? この世界でいま起きたことがモチーフであると思われるものの、それが預言や伝承的な言葉で語られることによって、今ここだけの話を超えうる抽象性や一般性を獲得してる、みたいな理解でよい?
たじま
物語化することで一般性や普遍性を獲得する/その反面、当事者性を損なう可能性もあると思うんですけど、あんまりそうじゃない気がする。全体が別世界のお話みたいなのではなくて、伝承的な言葉と事実的な(?)言葉がどちらも歌のなかにあるから、二重写しっぽく見えるのかな。まだうまくわかってないんですが……。
うしお
二重写しっぽいというのはなんか分かります。現実に対する異議と、異化された世界への志向となんか両方あるよね。
《平岡直子の大きさ》
うしお
わたしのほうでも異議申し立てということに関してはぜひお話したかった歌があってですね、『歌壇』の2025年11月号の
〈女の敵は女というならわたしこそ巨悪、口づけしてまわりたい〉平岡直子
この歌、まずは「女の敵は女」という定型句の、問題を女の側に転嫁して自分を正しい側に置く態度のいやらしさへの異議申し立てのようにはじまり、異議申し立てではあると思うんですけど、そこからわたしが巨大化するところがとんでもなく素晴らしいと思うんですよね。この「巨悪」、ぜったい巨大化してるじゃないですか。
たじま
でっかくなってますよね。
平岡さんにとっては「大きい」は悪らしいですよ。ネプリで見た。
というのはネットプリント「石になったの?」vol.3なんですが、平岡さんのエッセイがすごかったの。
Perfumeのライブに行って、「ライブが終わったあと、ステージ上には奇妙な演出が残された。巨大な人形が三体、空中から釣り下がっているのだ。(...)なるほど、肥大化した虚像のグロテスクさが表現されているのね、と納得した(...)大きいことは悪だ。自分が無意識に、しかし、とてもはっきりとこの固定観念を抱いていることに気づいた瞬間だった。」
うしお
まじか。でも平岡さんたまに大きいものの話されるよね。岡井隆について「なんだか人が乗り込んで操縦する形の巨大人型兵器が連想されてくる(『歌壇』2021年1月時評/『瞼のためのの偶数』)」って書かれてるし。
たじま
そういえば、藪内さんの歌集批評会でも、「本来は大きいものを扱うことが得意」、「巨大な怪物の影がある」というようなことを言ってましたね。平岡さんにとって「大きい」って、キーワードなのかも。
うしお
歌集にもありました。キーワードだ、っていうか男性性ですよね。
〈そりゃ男はえらいよ三〇〇メートルも高さがあるし赤くひかって〉平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』
たじま
ウルトラマンかな?もっと高いか。あべのハルカスかな。
歌に戻るんですけど、「口づけ」も巨のイメージが引き継がれているから、迫力ありますね。
うしお
え、待って、東京タワーじゃないの??
たじま
東京タワーの高さ、知らなかった。えっほんとだ、333メートルらしいです。
東京だ!!!
うしお
まあそれはそれとして、巨大化するし口づけするしどえらい歌なんですけど、ここのところのわたしの展開としては、社会詠って、そもそも現実社会をいかに認識するかという問題とわりとくっついてるところもあるよね、と思い、社会のことが書いてある本を読んでカルチベートしていくかあ、とやっていた感じだったので、それ自体は間違っていたとも思わんのだが、単に認識を深めるだけでは巨大化も口づけもできないな、と……
たじま
社会について認識を深めるだけでは、口づけできない……短歌にするのって、クリエイションですねえ。
そう言われてみると、自分がおおむねは怒りであろうもののこととか、なんなんだよっていうことを歌にするときって、翻訳するときと、飛躍するときとがあるかも
ある特定の出来事や社会構造によって生じる問題のことを知っていって、蓄積されたことをじわじわ歌に翻訳する場合もあるし、蓄積の結果、これだ!という飛躍が生まれることもある。
うしお
この手の飛躍は大好きだけど、別に自分の好みと自分の性質とは一致しないというか、わたしってぜんぜん平岡さんと一緒の岸にいる感じの人間じゃないので…… だからまあ、こういう歌を唱えて暮らしつつも私は自分がもってる土を耕すしかないわけなんですが。
たじま
うんうん。でもかっこいいよね〜〜
うしお
そうなの。そしてこの歌の制作時点ではそうじゃなかったと思うんだけど、いまの首相になってからこの歌を読むと無限に味がします
この口づけって女への口づけで、でもさっきたじまさんもいってたみたいにこの口づけってわりと迫力あるやつというか、味方の口づけとは言い難いやつで、という
たじま
それはそうだよ!そうじゃない読みのこと考えてなかったや。
うしお
これはユーリオンアイス以後になってからようやく得た感覚で、これっていっぱんに連帯とかシスターフッドとか言われるものなのかなんなのかわからないんですけど、人が女でなければ遭遇しなかったであろう(少なくとも遭遇する確率は下がったであろう)できごとに巻き込まれていたり、人が女であるゆえに習得したり強化したりすることになったんだろうなという身ぶりを眼の前にするときの、他人事として眺めることができない感じのあれがぐわーっと……
別にすべての女と意見が一致しますとか気が合いますとかいうことは当然ありえないわけなんですが、この社会が女というラベルを付けた人間に対してそれぞれの意見も人格も無視して一律に課してくるものがあり続ける限り、ほかの女の人生をわたしの人生とまったく無関係のものとして捉えることができないという感覚があるわけじゃないですか。
たじま
一般に連帯という言葉で表しているのは、もっと実際の行動として現れるものかもしれないけど、でもそうだよね。「わかり」がありますよね。
わたしは映画を観るようになってから、フェミニズムを具体的な状況や言葉をともなってわかるようになったかもしれない。フィクションのなかで整理された状況を学習してからの理解なのかも。
うしお
フィクションからの現実世界学習わかります。作者が世界の要素を抽出して再構成したものを見るわけですから世界についての解説本みたいなもんですよね。他の人の評があればさらなるメタ情報が得られますし。わたしはこれでだいぶ情緒を学習しました
まあユーリオンアイスにめちゃはまりした結果ようやくフェミニズムを自分の問題として考えるようになったというのは、ユーリオンアイスの解釈だけの話というより、人生でまじではじめて女性向けとされるジャンルが自分の問題となり、ようやく女って馬鹿にされてんだなということが直接の実体験として分かったからというのもあるんですが。
たじま
ああ、うん、それは、ある。女性を馬鹿にしながら女性にものを売りつける商売の仕方が。あるなあ………いろいろ思い出しちゃうよ……。
うしお
めんどくさいオタクだからちゃんと主張しておきますけど、ユーリオンアイスの公式なり、ミズノさんなり唐津市なり、その他この作品をアピールしていく側からそういうものを感じたことは一度もなく、どちらかと言えば、こういう本を読んだ/映画を見たんですよ~とかそういう会話の場において、ああ、"腐向け"/女性向けのやつね、と、その手のものについての話は聞く価値がないという態度をとられるということが相次いだからです。わたし、自分で言うけど学歴あるし態度でかいしで、ひとから舐めた態度とられる経験たぶん少なめだったほうだからなのか、これされてはああ~~~!?? となってさあ
そしてその場で、いや"腐向け"/女性向けとかじゃなくて、と言いたくなる私の存在にも気づいたからではあるんですが
たじま
それはミソジニック商売と一緒にしてごめん。
《次回に向けて》
たじま
流れで言うんだけど、BL短歌合同誌『共有結晶』のこと話したいな。穂崎円さんのことはそのときから一方的に知っていたんですよね。共有結晶はBLジャンルが被るそういう偏見とヤな態度にさらされてきたわけじゃん。わけじゃんっていうのをもう知らない人もいることもヤだし、よもやまをまたやるってことなら、わたしは共有結晶の話がしたいんですが……。
うしお
わたしもその話はずっと(まあユーリオンアイス以後のわたしになってからのずっとですが)したいと思ってました。共有結晶の終売のときぐらいに書き始めたものの止まってしまったメモがあり、榊原さんのゆにここの講座がはじまったときとか、かばんがBL特集をしたときとか、現代短歌がBL特集をしたときとか、ずっと共有結晶の話はしないんですか!???と思ってたんですよね。
たじま
それそれそれ!!短歌総合誌のBL特集で共有結晶という先人のことをほとんど無視してることのわるくち、たくさん言える。
うしお
ていうか私がすることが適切なのかわからないんですけど、短歌の歴史の上で共有結晶の話をする人が必要じゃないですか、の気持ちがある。まあよもやまが短歌の歴史の供給源になりうるものなのかというとびみょうなきもしますが
たじま
わざわざ短歌のものにするのもなんなんだという気持ちもあるんですが、ここまで「ない」状態にされてるとさすがにないですよ!?って言いたいですね。
じゃあ次回は共有結晶もしくは「歌壇」のよくなさの話をしましょう。説明はもう『BLの教科書』の岩川ありささんによるBL短歌の章を読め!って感じですが、いるかな?
うしお
まあ次回に説明から入るのでどうでしょうかね。
たじま
了解です。引用するのが一番わかりやすそうですが、またあらためて。
うしお
では次回もどうぞよろしくお願いします。おやすみなさい~
たじま
おやすみなさい。

第7回 ふたたびよもやまばなし始動

たじま
わーい
うしお
やんややんや
たじま
というわけで、現代短歌よもやまばなしセカンドシーズンを始めます。ファーストシーズン?は2021年でしたね。今回はなんでやるって話になったんでしたっけ?
うしお
こないだ急に存在を思い出して読み直したんだよね。このところ羽根と根に載せるための『往信』の歌集評を書いてたんだけど、念のためと思って「佐々木朔 往信」で検索しまくってたら、この記事に行き当たってですね、
https://vetechu.hatenablog.com/entry/shinotourai
青松さんのブログで、到達できないイデアとして措定される「詩」というものが、絶対的な他者としての「きみ」に絡めつつはなされてて、おもしろいな~と思いながら読んでたら、補足のところで藪内さんの話になって、よもやまで『海蛇と珊瑚』の話があるよってリンクが出てきたんですよ。
たじま
言及いただいている!知らなかった。元のエッセイは当時読んだ覚えがあります。青松輝さんの歌集といえば、先日の批評会がとてもおもしろかったです。批評会でも「きみ」の存在について言及がありましたね。
うしお
そうなの。会場発言で丸田さんが青松さんの「きみ」は、読者に対して呼びかけるタイプの「きみ」だって言われてたのわりとおどろきでさあ。わたしはどちらかと言えば、石山さんがnoteに書かれてた読みのラインで読んでたので。これって、唯一無二の他者をステージに配置するための二人称というか、短歌の二人称としてはこのラインで読むほうがあるあるのやつじゃないですか。流石にあとがきの「あなた」のほうは呼びかけで読みましたけど。
丸田洋渡さんのnote:https://note.com/jellyfish1118/n/n6becbfb3118b
石山ふねさんのnote:https://note.com/___watercraft/n/n3ddf1189f303
たじま
批評会でもうちょっと聞いてみたかった部分でもありましたね。
わたしも呼びかけとしては受け取っていなかったです。我と汝の(もしかしたら二人だけであるかもしれない)世界を立ち上げる二人称というイメージ。 あんまりぴんと来てないかもしれない。おもしろいと思うんですが、呼びかけ説。
うしお
わたしもぜんぜんぴんときてなくて。でも、さっきの青松さんのブログの方で出てくる「きみ」とか「あなた」とかについては、短歌の二人称的なエモさをまとっていると同時に、こちらへの呼びかけ性みたいなものを感じる一瞬があって、それが結構おもしろかったんですよ。
短歌という媒体と、インターネットという媒体が前提する読ませ方の違いなのかなとか。丸田さんが呼びかけ読みの話をするときに持ち出してくるのもYoutubeだし。
たじま
媒体もあるのかな。わたしは文字媒体で呼びかけられるとちょっと冷めるところがある。呼びかけ的に見えてもその読み筋を避けてしまうかも。たとえば映画の第四の壁を破る演出って、実際には破れてないじゃないですか。演劇とかだとこっちのリアクションとの応答性があるからノれるのかも。
動画配信だとその辺はまた感覚が違うのかな。とくにライブ配信だと、オーディエンスのコメントがあって、そこに配信者が反応したり、事前質問に答える配信があったりするじゃないですか。
うしお
うーん、私はインターネット動画ってほぼ見ないので動画について知ってることが何もないかも……ポッドキャストも聞きたいなと思いつつもぜんぜん聞けない方で。
だからよもやまはテキストでやろうねということにこだわっているわけですが。
たじま
なるほどね。(いまわれわれはチャットでこの会話をやっております)
うしお
だから呼びかけ読みができるかどうかって、ふだんどういうコンテンツに慣れ親しんでるかによるんじゃないかなあとか思ったり。こうなってくると私が呼びかけ読みをできる日が来なさそうなんですが。
たじま
わたしがブログの「補足」パートを読んで、おっ!とおもったのは、「到達できない」ものを求めるのは「ロマン主義」の図式ではないか?と言及されているところですね。詩/死/あなたへの希求、到達できないからこそのエモーショナルさって憧れるところはある。わたしの認識ではそれらは世界の真理や魂への希求でもあり、芸術とはそれらを求めるものであるというマッチョな気持ちもあるっちゃあるんですよ。
うしお
うんうん
たじま
最近わたしはチェーホフの中編『中二階のある家 ある画家の物語』を翻訳する講義を受けているんですが、「人類は真実と人生の意味を探究することにその身を捧げるべき」という主張をする若い画家が出てくるんです。こういうの、あるよね。
うしお
あるある。
たじま
身体的な労働から解放されて精神的で創造的な活動をするのが一番だよね、という。この話題が出てきた文脈としては、隣家の貴族の姉妹の姉の方がいわゆる活動家で、地域貢献活動として診療所の建設や学校教育の拡充に力を入れているが、画家としてはそんなことは対症療法で、本当は人類が精神的活動をできるようにすべきっていう話なんです。
でもおもしろいのは、姉は「それってとても魅力的ですけど、何もしない人がいうことですよね。私たちは自分の力でできる限りのことをしようとしているんです」って反論するの。
うしお
待って、情報量が多いぞ。そういうイデア界に向けた感じの理念を持った画家がいるが、対比として、現世のために活動する人も出てくる話ってことなのね。
たじま
そうそう。そして実際のところ、画家は日々を怠惰に過ごすことを自分の運命として、毎日空を眺めたり、郵便を全部読んだりして遊び暮らしているんですよ。
うしお
さすがチェーホフ。そういう落とし方をしてくるわけですね。
たじま
そう、でも若い、まだ十七、八歳の妹の方は、画家の話を芸術家の偉大な魂からくるものだと思って恋に落ちてしまうのです……。これオチはまたすごくて、妹の方が結局去ってしまい、画家の恋は叶わず、全てがまぼろしのようになってしまうの。
なんでこの話を思い出したかというと、「真実や人生の意味」を求める気持ちって心惹かれるけど、それらを芸術と結びつけつつも到達し得ないものとして扱う話は19世紀末の時点であったんだなあと思って。
チェーホフはロマン主義というよりも自然主義?写実主義?だと思うけど。
うしお
さすがチェーホフ(その2)
その落とし方をしてくる時点でたしかにチェーホフは反-ロマン主義側って感じですね。
たじま
青松さんのブログの「補足」で穂村弘がロマン主義なんじゃないか?という部分のあと、「さっきの補足と合わせると、じゃあセカイ系って近代ロマン主義のシンプルな子孫なんですか?みたいな疑問もわいてくるけど、自分の力量ではもうちょっと時間をかけて考える必要がありそう。」とあり、確かに大きな話になりそうなんだけど、チェーホフみたいな時代から、「ロマン主義」?VS「自然主義」?(用語があんまりよくわかってないんですが)の話があるってことは、本当にもっと大きな話なんじゃないのかな?という。
いや、ちょうど訳したばっかでチェーホフがおもしろい話をしたい欲もあってなんだけど。
うしお
たしかにこの二項対立と往還はいろんなところで見るやつな気がしますね。それこそ『4』批評会でほむほむが整理してたリアリズムと反リアリズムの繰り返しとか。でもこのあたりの絵をちゃんと描いたり見たりするためには普通に文学史の知識がほしいのでしり込みします。
たじま
そうそう、批評会の話もうっすら思い出していました。穂村弘が言っていたのは、前衛→ニューウェーブ→ポストニューウェーブの次の世代として、青松輝さんの歌集があるのではないかという話でしたね。パネリストが誰もその構図の話に乗らなかったので、そういう構図的な見方も違うんじゃないかというムードはあったんですが。
ただ、批評会では短歌の歴史として語られていたけど、チェーホフを思い出したことで、大きな文学史やもしかしたら「世論」的なものの変化と関連することでもあるのかなと思いました。
うしお
歴史の流れにそういう交代を見る世界観は分かるし納得もいくんだけど、それはそれとして、わたしとしては、どの時代にも本質的にロマン主義(?)側の人間と、本質的に自然主義(?)側の人間がいるんじゃないんですか?とも思うんですよね。その人口が時代ごとに増えたり減ったりしてる気はしないんですけどね。短歌とか、Twitterでもいいんですけど、人が書いたものを読んだときに、この人って私とぜんぜん違う世界で生きてきた/るんだろうな、って思うことあるじゃないですか。よいとかわるいとかじゃなくて、本当にぜんぜん違うタイプの人間の世界観がかいまみえたことにびっくりするというやつ。
たじま
それはそうか。文学史の流れだと、人間に内面があることに私小説によって気が付かされたみたいな話を聞いたことがありますね。でもインターネットやSNSの出現によってもっとそうかも。
文学みたいな内面とか思想が反映された作品が流行になったり、後世に残ったりすることと、その時代がどういう時代だったかということには相互的な関係があるっぽいの、おもしろいよなと思っています。
うしお
わたし、物理的じゃないものの存在を信じはじめたのが人生において後発の出来事だったので、作品が時代を反映するみたいな話、人文学あたりまえ知識なんだろうなと思いつつも毎回聞くたびにそんなことあるんだ、みたいな驚きをもって受け止めちゃう節がありますね。 というかこの話と関連してたじまさんに聞いてほしい近況もあるんですが……
たじま
物理的じゃないものの存在!?
そんな、、真実とか、人生の意味とか、魂とか、、わたしがこんなに心惹かれますよねとか言ってたのに!?
うしお
いや哲学で言う方の自然主義ってあるじゃないですか、文学の自然主義とややこしいから唯物論とか言っといたほうがいいのかな、戸田山和久の『哲学入門』とかこのラインなんですけど、われわれの日常言語であることになってる抽象物のすべては物理的なものによって説明できるはずでしょうという立場というか。
流石にいまの私が本気で唯物論にコミットしてるわけじゃないし、唯物論にコミットすることにもまたそれなりに苦労があるんですけど、高校とか大学はじめぐらいの頃の私は唯物論にコミットするとかしないとかを検討する以前に、デフォルトがそういう世界観だったというか、それが学部教育とかユーリオンアイスとかをやってるうちに、人間って物語のなかを生きてるんですねという世界観をようやく自分のものとして得た感じで……
たじま
ああ、感情の動きは全て脳内物質の分泌によるもの的な……?
うしお
まあそういう世界観のものと思ってもらってよいと思います。
たじま
そうなんだ。わたしは物語に耽溺する方だったから、さすがに人生が物語であるとは思ってはいなかったけど、あんまり物理的なもののことは興味なかったかも
うしお
まあ物語って言っても定義いろいろだし、さっきは、物質でもロジックでもないけどなんかみんな心のなかに持ってるぽいもの、ぐらいのテンションで使っちゃったんですけど。
わたしは周回遅れで人生と物語まわりの話が気になってきたのが最近のことでですね。
たじま
人生と物語?
うしお
応用哲学会に人生の意味と物語について論じた論文が出てるのを見つけたのがより直接的なきっかけだったんですけど……(たじまには聞かせたかったけどよもやまに載せるには長過ぎたうしおの近況報告を中略)……おもしろい話のはずだからもっと知りたいなという気持ちのわかりませんだったから、関係あるかもと思って山口尚の二冊目『人間の自由と物語の哲学』を読んでみたんですよ。
たじま
同じ著者の別の本ですね。すごい読んでない?
うしお
最初に言った論文を読みはじめたのが9月あたまで、そこから入門書読んで山口尚の一冊目読んで山口尚の二冊目読み終わったのが一昨日とかかな。
たじま
一ヶ月半くらいの話なんですね。じゃあいまは濃縮版だ。
うしお
そう。煮込んだところの今の関心事なんです。というわけで山口尚『人間の自由と物語の哲学』を読んだんだけど、一冊目の『幸福と人生の意味の哲学』ほどにはテンション上がらなくて。一冊目は魂を賭けてやってますって感じだったけど二冊目はそこまででもなかったからなのかな。二冊目の方はだいたい筋は追えたんだけど、その分それってほんとにその議論でちゃんと主張が成立することになるんですか?みたいなことが気になっちゃって。
たじま
主張はわかるけどほんとか?ってこと?
うしお
そうそう。でもやっぱり山口は、分析哲学とか自然主義、唯物論の哲学とは意図的に違うことをやろうとしているみたいなので、こういうこと言うのもお門違いかも知れないんだけど。でもほんまか?と思っちゃうところはあり……
たじま
分析哲学の論理としては反駁の余地があるって感じなのかな。後に読んだ本ではどういう話をしてるんですか?
うしお
前半では、唯物論的な、つまり、物質とか物的な因果関係の言葉だけで世界を説明する立場は確かにあるけれども、それとは違って、焦点を人間の方に合わせて、ものごとを選択する主体としての人間とか、その人間の自由みたいなことについても語るべきだし、そういう話をするためには唯物論の言葉以外の言葉が要るよね、という話を小説を出しつつやって、いろんなレイヤーの言葉をつかっていろんなレイヤーから世界を語ればいいんじゃないですか、という話で。そこから後半では、その小説的なレイヤーの言葉で人間について語ると、人間は主体的で自由なので(単に因果関係に従っていればいいだけの木や石みたいなものとは違って)主体的で自由であるがゆえに必然的に世界と衝突せざるを得ませんがどうしたらいいんでしょうか?みたいな話を近代明治文学をいろいろ参照しながら論じていくという話になるんですが……この後半の方がわたしにとってのほんまか?ゾーンで……
たじま
唯物論的な言葉じゃない言葉っていうのは、穂村弘の言い方で言うと情報伝達以外の言葉みたいなことですよね?
短歌の言葉は情報を伝える以外のこともできるというやつ。
うしお
いやどうだろう。唯物論の言葉と主体についての言葉(と便宜上二分するとして)の間の線引きは、情報伝達かどうかじゃなくて、自然科学で説明できるかというところにあると思うんですよね。
だから情報伝達の言葉であってもふつうに主体について語るレベルの言葉であるってことはあると思う。
たじま
「唯物論的な言葉」わかんなくなってきたかも。唯物論って、人間の意思とか感情に関して物理的で科学的な視点から語ること?
うしお
それです。
たじま
そうじゃないやり方として、なんか…気持ちとか…選択したときの判断基準とか…ぼんやりしたやつをそのままお出しする語り方があるよねってこと?
うしお
ぼんやりしたやつじゃなくても、人が意思決定してこうすることにしましたっていうのは、人間の脳の神経物質が……みたいな物質的な因果の話じゃなくて、その人が自由にものごとを選択したっていうかたちで話すべきですよねっていうレベルの線引きですね。
たじま
ああ、そういわれるとそうですね。「私は眠いから寝た」と「脳内分泌物の作用で睡眠状態になった」みたいな?そこまでが前半で、まあわかる。
後半について、わかんないかも。「人が主体的で自由であるがゆえに世界と衝突せざるを得ない」の世界っていうのは、物理的な空間とかってこと?それとも他者の主体的で自由な語りとの衝突?
うしお
世界っていうのでどっちが言われてるのかはそんなに気にしてなかったな。
木とか石とかには自由もないので挫折もないけど、人間には自由があるがゆえに挫折がある、みたいな感じの話ですね。
たじま
主観的にはホルモンとかの作用じゃないから、意思とか感情を語るとき、それが達成しないとかするとかの話があるってことか。
うしお
そんな感じ。
たじま
ここまでの話を聞いていると、「眠いから寝た」ことを「脳内分泌物の作用で睡眠状態になった」と言わないのは疑問を覚えることもなかったけど、あらためて厳密に考えると、われわれはすでにそういう言葉の使い方を会得しているし、その使い方を哲学の俎上で考えるってこと……?
うしお
そういう側面もあると思いつつ、ここからわたしのもにょりポイントにもなってくるんだけど、後半では、いろんな小説の筋書きを紹介して、そこでなされた登場人物の決断のしかたとかを見ながら、自由な主体はどのようにして世界との(不可避的な)衝突に向かっていけばいいのか、みたいな話になってくるんですよ。このあたりから、私はこの本が哲学の話をしているのか文学の話をしているのかが分からなくなってきて(というコメントが出るのは著者も想定したうえでそれでもこのスタイルを選んでるんだろうなという感じはするのだが)、なんで文学作品を分析することが、現実の人生のあり方についての分析になり得るんでしょうか?っていうのがわからないんですよね。
たじま
ええ〜!?それは、たしかに、そうかも……!
うしお
いや直観としては分かるよ。優れた作品について考えまくることが何らかの真理への接近と同種のなにかであるという直観はある。でもこの直観がいかにして正当化されうるのかということがさっぱりわからない。
たじま
人間が考えたり決断したりするあり方は、文学のままではないんじゃないの……?
でも逆に、人間が考えたりするときの様子って、脳をモニタリングしてもわかんないし、心理学的な分析であってもそのひとのそのままの状態ではとりだせないだろうし、テレパスでもないとわかんないかもね。
それってちがうかも!とでもじゃあどうやればいいんだ!?がある!
うしお
人間の主体的なレベルでの心の動きについて語りうる方法ってことで小説が出てきてるんだと思うんだけど、でも小説ってふつうに特定の個人が作っただけのものであって、それが普遍とか真理とか、まあそこまではいかなくとも、何らかの一般性があったり、現実についての理解の助けになりうる議論の根拠になる理由なんてないじゃないですか、と。
たじま
うんうん、たしかに、ほんとか?になった……
うしお
本の中から私が見つけられた論拠は、小説が仕事としていることのうちの一つに(全部って言わないところが哲学者らしくちゃんとしてるよね)私たちは何者かという問いに対して答えることがあるっていう話と、坪内逍遥も小説とは人間(心理)を書くものと定義してるっていう話があるんだけど、いやでも小説というパッケージングになっていたらどんなものでも採用したいってわけじゃないはずでしょう??と。
たじま
だから近代明治文学なのか。近代明治文学の私小説はもしかしたら心理を克明に描き出すことを使命としているひとが多めだったのかも。そうじゃないひともいただろうし、実際に目指していたとしてもテキストの全てがその目的に向かっているとはかぎらないが……
うしお
そうそう。明治は現代への直接的な出発点だし、明治文学は世界と自己について語るための新しいやり方が模索された転換期でっていう話もされてた。
いやしかし、私が哲学に求めてた仕事は明治文学の解釈じゃなくって文学の解釈と現実の人間の生とを結びつけてしまう直観の根拠を正当化することの方なんですよね!!!
たじま
それこそ日本の明治の文学ってロシア語のリアリズムの文学に影響を受けているから、なんかうっすらチェーホフに話がつながってきましたね
うしお
まあそんなこんなで、さっきたじまさんが言ってた作品と思想と時代の関係ってなに?という疑問が、私の上にまじで降ってきたという話に至ります。近況でした。
たじま
ああ、文学と人間の生、つながる気がするけどどんな仕組みで?っていう、、
わたしは仕組みより、文学の歴史的経緯とか、それによってどんな影響があるとされてきたのかとかに関心があるかも。哲学ではなく文学批評の分野にありそう。
うしお
そうなの。この話、一般的にはつながりの仕組みよりもそのつながりを暗黙の前提として描かれる具体的な絵のほうにみんなの注目は向いてるのかな? と思いつつ。短歌ではあんまりそうじゃないけど、一般的な批評の世界でも、作品と時代思想と社会の話がすごいシームレスにつなげられてるよね。直感的にはまあそうなのかなって気がしちゃう瞬間もあるんだけど、このつながりがいかに正当化されるのかについて、誰がどこで議論しているのかを全然見つけられないんだよね。
たじま
具体的な絵っていうのは、作品とそこから読み取れる思想と時代にはこんな関係があります!みたいなやつですか。
仕組みの方は、まあたしかに分析哲学の分野っぽい。
うしお
そうそう。分析系の哲学が取り組む価値がある仕事だと思うんだけど。
わたしがいま査読誌に投稿してる修論も、最終的には作品解釈と現実の権力関係って関係ありますよね、を分析哲学の言葉で言う感じになったんだけど、今までの哲学者たちが整備してくれてたいろんなゲームフィールドをめっちゃ活用してそこまで至れたって感じなので、関係しそうな既存のゲームフィールドがどこにあるのかも見つけられてない話だと何からアプローチしていいのかさっぱり分かんないのよね。
たじま
なるほどなあ。いま気になっている状態ということですね。やっと話に追いついたかも。。
じゃあこれからのリサーチ段階があるわけですか。
うしお
そうそう。まあ飽きるまでやります。
たじま
うん、また進捗を聞かせてください。
次回予告 最終回
ブログ企画〈うしおとたじまの現代短歌よもやまばなし〉は、最終回を「オンライン短歌市」で公開して、企画を終了します。
最終回では、これまでのトークを振り返って、あることについての反省を語ります。
「オンライン短歌市」では、〈エリア2: あ1〉で、最終回の分のネットプリントと、全ての回をまとめた完全版をネットプリントで発行します。
「コンビニにネットプリントを出しに行くのがたいへん」という方に向けて、ダウンロード配布も行う予定です。
「オンライン短歌市」とは、インターネット上で開催される短歌限定の即売会イベントです。
参加方法はこちらの記事で詳しく説明されています。
2月21日、「オンライン短歌市」に遊びに来ませんか?|御殿山みなみ|note
①ピクトスクエアへの会員登録
②当日、会場ページにログイン
③【エリア2: あ1】にGO!
目印は当ブログヘッダーの山のイラストです
開催概要
日時
2021年2月21日(日)15:00~23:50
サークル名
よもやま【エリア2: あ1】
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