現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

次回予告 最終回

ブログ企画〈うしおとたじまの現代短歌よもやまばなし〉は、最終回を「オンライン短歌市」で公開して、企画を終了します。
最終回では、これまでのトークを振り返って、あることについての反省を語ります。

「オンライン短歌市」では、〈エリア2: あ1〉で、最終回の分のネットプリントと、全ての回をまとめた完全版をネットプリントで発行します。
「コンビニにネットプリントを出しに行くのがたいへん」という方に向けて、ダウンロード配布も行う予定です。

 

「オンライン短歌市」とは、インターネット上で開催される短歌限定の即売会イベントです。
参加方法はこちらの記事で詳しく説明されています。

2月21日、「オンライン短歌市」に遊びに来ませんか?|御殿山みなみ|note

①ピクトスクエアへの会員登録
②当日、会場ページにログイン
③【エリア2: あ1】にGO!
目印は当ブログヘッダーの山のイラストです

 

開催概要

日時
2021年2月21日(日)15:00~23:50
サークル名
よもやま【エリア2: あ1】

pictsquare.net

 

 

お品書きはこちら

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当日はどうぞよろしくお願いいたします。

 

うしおに差し入れする

たじまに差し入れする

第3回 口語都市詠と社会の話

 

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たじま
こんばんは。

うしお
こんばんは。

たじま
このまえの続きで、口語都市詠のこと話したいんですが、ちょっと今日のこと話していいですか?

うしお
どうぞどうぞ。

たじま
漫画『ダブル』が無料公開されてて、おもしろかったです。演劇の話って元高校演劇者からすると、自意識がすごい時期へのいたたまれなさとか、そうはならんやろの気持ちで一歩引いてしまうところがあるんですが、「演劇やってる」的な自意識への照れと茶化しがあんまなくてよかった。

うしお
うんうん。

たじま
そうはならんやろもあんまなかった。

うしお
へええ、ダブルよいよね。途中まで読んだ。わたしの知ってる演劇が地点しかないから、あっちの演劇のほうのことはあんまり分からないんだけど。

たじま
まあ、「短歌やってる」的な自意識をことさらにとりあげて尊大な羞恥心をもてあますこころがあるじゃないですか。

うしお
わかるようなわからないような、、でも学生短歌会なんてみんな短歌やってるんだから短歌やってる自意識をことさらに持つの難しくない? でも全く知らない話じゃない気もするから忘れちゃってるだけなのかなあ。

たじま
うん、でも『ダブル』はそういうところをあんまりくどくどやってなくて安心して読めたし、公開されてた最新話の23話がすごい急カーブでよかったです。
おもしろくて帰りのバスで読んで乗り過ごしかけた。絵が上手い

うしお
演じてるシーンとか、人間の表情やふるまいのあらわれ方の違いが絵によって説得されるのやばいよね。

たじま
うん、セリフなしで表情と間で語る映像みたいなのを漫画で見れるとうれしい。
口語都市詠の話、しますか?

うしお
どっちでも……。いやさあ、わたし一応短歌評論はもうお休みしようの気持ちを固めちゃってたもんだから、あんまり総合誌とかチェックしてなくて、歌壇全体に広がるはなしをあつかうのに難しさを感じるんだよね。

たじま
歌壇全体の話だとちょっと広すぎますね。
直近の歌集だと、『予言』『ビギナーズラック』『光と私語』『風にあたる』あたりを想定して口語都市詠って言いがちですけど、読むとわりと全然違うからなあ。

うしお
うん、この中では『風にあたる』はだいぶ抒情だと思うな

たじま
わかる。あと『光と私語』も。

うしお
風とは別方向だけど抒情だよね

たじま
前回、『2や8や7』で「都市生活者め!」ってなったことをちゃんと考えてみると、うしおさんが前回言ってた、「そこにあるものをそれとして見るという暮らしにおいて権力構造を意識しなくてすんでいてよいですね」なんですけど、『2や8や7』のどの歌ってわけじゃなくて、もっとぼやっと拡大して、都市生活者への印象のはなしになるんですよね。

うしお
それってリアル都市生活者への印象というよりは、都市生活詠で書かれてる都市生活者への印象ってはなしだよね?

たじま
そう、都市生活詠のなかの都市生活者への印象。リアル都市生活者のことはよく知らない……。
そこにものがあることだけをそっと指し示すような、なにか意見や主張を付け加えることはせず、自分の認識を素直に差し出して「こうなっている」という空間を見出す目線があるとして、それって、その社会構造で搾取されているひとがいる、いま目の前にある社会について無言になっているのではないか。社会への異議申し立てを際立って行わないですんでいるという特権性があるよね、という気持ち。
いや、短歌で社会的な主張をやってるのをたくさん見たいというわけではぜんぜんないんだけどね……。
むかしの永井祐評で、「社会への抵抗がない」とか(これはわせたんのロングインタビューでこういう評がありますねって言われてた話)、「ノンポリ青年め!」みたいな評がされてたっぽいし、「いまどきの若者は主張がない」みたいな話になるとそれはそれで嫌だけど。

うしお
たしかに抗わなくてもおびやかされないでいられることがすでに特権的であるというのは分かる。

たじま
永井さんはわせたんのロングインタビューでは、社会への抵抗がない話を持ち出されて、「社会のダイナミズムに乗っかって、押し流されている流れを文体に反映させていくことが、文体の変革になっていくんじゃないか」みたいな話をしてて、それはそれで2013年当時の意見なんだろうな……とは思うんですが。
だから、永井祐(作者)はいろいろ自覚的なんだろうなとは思うんだけど、都市生活者像としては、無言に見えることを免れないところはあるんじゃないか。

うしお
その一方で、わたし若者には思想とか主張がないとかの話はすごく嫌で、それはこういうことを言い立ててくるひとはそのひとお好みの内容・形式の主張を見たいだけでしょとしか思えないっていうのもあるし、そもそも思想にせよ主張にせよ人に言われてやるものでもなかろ、と思うからってのもある。

たじま
そうなんですよ。私が社会の話をしろとはべつに思わないって言いたいのもそれ。

うしお
ねー

たじま
まず短歌を主張の道具にするのはめちゃ嫌だしそれを言ったら元も子もないじゃんっていうのもある。物語とかドキュメンタリーの道具にするのも嫌だし。
でも、現代社会で都市で生活して、そこにものがあることを見つめているひと(歌に書かれた都市生活者)が、その社会の搾取構造には目をつぶっていることになってしまうのではないかというのがひっかかるんですよね。
そこに目をつぶっているという自覚がないなら、それは都市生活者の特権性への無自覚ではないのかと。

うしお
思想的観点から作品を考える時、たとえば既存の偏見や差別を強化するような作品は批判されてしかるべきだと思うけど、特定の問題に向けた仕事をしていないということそれ自体は、別にその作品がその仕事を選ばなかっただけであって、とやかく言うことじゃないのかなって思ってる。
もちろん、時代とか文脈によっては、何もしないということそのことが差別を強化しているという場合もあって、簡単に区別できるものでもないと思うけれど。

たじま
ああ〜〜。作品の仕事として見ることなのかなあ。特定の問題に向けた仕事をしていないっていうのは……?

うしお 
えーっとね、手持ちの例がこれしかないから推しコンテンツ周りの話を持ち出すんですが、

たじま
はい。推しの話だ!

うしお
ユーリオンアイスは、同性間の、具体的内容は特定されないけれども愛のようなものとして呼ばれる関係性を描いたわけだけど、現代の社会における同性愛者の権利の認められてなさとか、同性愛表象の少なさとかを思えば、同性愛・異性愛の権力差の問題に対して正面から取り組もうと思うんだったら、男性同士の恋愛的関係を明示した方がよかったという考え方もあるよね。

たじま
クィアベイティングではないかという批判ですね。

うしお
でもユーリオンアイスはこの愛(や作中に出てくるほかのいろんな愛)のなかみを特定しないかたちで表象することを選んだ作品で(ここに商品経済上の配慮が一ミリも働かなかったとは思わないけど)、そうしないと達成できなかった表現上の意義があったし、そもそも恋愛至上主義を拒否するという意味でも、ユーリオンアイスはユーリオンアイスの仕事をしたんですよ。

たじま
うん、あと男性同性愛者、他のキャラクターでいるっぽい話を聞いているんですが……ユーリオンアイスを結局見てないから噂なんだけど……。

うしお
そういう話になってるんだ。みんな男性同性愛者だと解釈しているキャラはいるけど特にそういうことを具体的に特定する何かしらの明示はされてはない、いや、そもそも”明示”ってなんだよという話なので、そう見えた時点でその解釈を制作者も意図したと思っていいと思いますが。
クィアベイティング、同性間の関係性は”ふつう”恋愛だと解釈されないことを利用して関係性のひだを読ませる物語をやっておきながら、同性愛は”ふつう”起こりませんよねってするやつはたしかにナシだと思う。でもユーリオンアイスは作中できちんと同性間の恋愛や結婚をも肯定する目くばせを行っていて、だからこそ、ユーリオンアイスは同性愛差別の問題に抗うことを第一の仕事として作られた作品ではなかったけれども、恋愛も恋愛じゃないものも含めたあらゆる関係性を肯定する仕事ができたんだと思っていて。
あるいは、作品の仕事、物語やキャラクターがどういう価値観をレペゼンすることを望むかって話としては、ハンジさんのジェンダーまわりの話も例になるのかな。わたしこれ見ると怒りたくなるときも多いからあまり追ってはないんだけど、ハンジさんが女性であると明示(また”明示”だよ、いいかげんにしてくれ)してほしかったみたいな見解の人もいるようでさあ。

たじま
うん。社会的マイノリティが作品にいることで価値観のレペゼンがなされるというのはあるけど、同時にひとのマイノリティである側面はそのための道具じゃないっていうのもあるし、そのへんのマイノリティ表象については映画の評でもたくさん見る。
MCUとか毎年ちょっとずつ新しくなっていく行事みたいなもんだったから、すごく批評の変化のスピードが早いような気もする。

うしお
まって、MCUって何のなにですか?
まあ、ハンジさんに”女性”であってほしかったって考え方は、ハンジさんという存在によって女性という属性を肯定してほしかったってことなんだと思うけど、Xジェンダーの人だっているだろうし、そもそも”女性”か”男性”か”明示”しろって求めるの自体が勝手なものだから。

たじま
マーベル・シネマティック・ユニバース、つまりマーベルという出版社のコミックを映画化してるシリーズで、『アベンジャーズ』とか『スパイダーマン』のことです。
MCUを出したのは、アメコミキャラクターという原作がありつつ、その実写化でさまざまな人種をキャスティングしたり、コミックの流れだけど映画の脚本によってそのキャラクターの物語をマイノリティのエンパワメントにつなげるということをしていたからです。

うしお
なるほどマーベルね。ハンジさんは明確にマジョリティ男性ではない存在として描かれていて、わたしはヒーローに憧れるように(これも簡単に気持ちを言おうとしたらヒーローとか英雄とかしか社会的に共有されている語彙がなくてさいあくなんですけど)ハンジさんのことを好きになっていて、今までヒーロー役が与えられるってマジョリティ男性ばっかりだったという点で、非マジョリティ男性としてハンジさんのような人を描いてくれたことにものすごく感謝したいんだよね(ハンジさんの話は無限にしてしまうのではやく進撃を読み終わってください。ハンジさんのナウシカ性とアンチ-ナウシカ性の話もしたいです)。

たじま
ああ、なるほど。私がMCUを出したのは、ヒーローがマジョリティのひとではなく、女性であり、黒人であり、それぞれのマイノリティである、そのさまざまなあり方をたくさんやってるからだとおもう。エンタメなのでとても商業主義的なところはあるけど。
このやり方は「マジョリティではない」属性の数だけ無限にあって、さらに時代を経るにつれてそのマイノリティ表象でも批判すべき点はたくさん出てくるんだけど、逆にハンジさんのはなしでいうと「マジョリティではない」の否定だけを置いているってことになるのかな。

うしお
すくなくともわたしはそう解釈してるかな。というか最初の方わたしはとくに疑問をもたず女性のひとだと思っていたんだけど、ハンジさんはまったく社会的女性ジェンダーのふるまいをしないからか男性かもと思ったひともいたみたい??で、性別を聞かれた作者のひとが、じゃあお答えしない方がいいと思いましたって言ったみたい?な話だったらしいが、まあ、明示されてないし、マジョリティの男性には見えない(屈強な男性ではないためにナメられてるっぽいシーンとかもあるし)人物が、自身の意思として世界のためにやるべきことをやろうとするっていうことがですね、、、あーーすごい脱線してますね?推しの話になるとちょっとだめですね。

たじま
うんうん。「マジョリティではない」というかたちで提示されていて、そのことはさておいてやるべきことをやっていると。

うしお
作品の仕事というところに話を戻しますが、つまり、創作物はその内容や設定によって現代の社会において周縁化された集団をエンパワメントすることができるけど、あらゆるマイノリティを一気にエンパワメントしたり/すべての権力勾配に抗うことはできなくって(なおかつ権力勾配に抗う以外にもいろんな仕事はあって)、だから、その作品が仕事と定めた範囲のことをやるってことでいいんじゃないかなっていう感じです。

たじま
 たしかに。一気にはできないから、そこにいるところからできることをやるしかない。

うしお
そう思ってます。

たじま
ええ〜〜っと、でも、ちょっと思ったのは、何度か言ったけど、目に入っていることについて黙っているのは権力構造を追認しているという誹りを逃れられないわけで、それは短歌の場合、特に言っていないことは考えられる可能性の中でもっとも一般的なこととして理解されやすいという問題になるんじゃないのかな。短いから。
短歌だと主語がまずは「私」になるっていうことから、一般的と想定される像が優先されて、「一般的じゃない」ことは殊更に説明や詞書や外部情報が必要になってしまう問題のことなんですが。

うしお
うん、まあ、それはそういうとこはある感じする。単にそれを仕事にしなかったってことと、権力構造を追認しているってことの違いって、グラデーションだし、時代とか文脈とかによっても変わってくる気もするし、わたしは都会育ち都会暮らしなので、どっちかっていうと都市生活者側の観点しか持ってないんだよねえ。
短歌、作品に載せられるものってある程度限界があるから、文体とか修辞とかを載せていってしまうと、あとの余白は既存の価値観で読ませるしかなくなっちゃうっってとこもあるし。

たじま
既存の価値観のなかである瞬間のリアリティを発見して、それを言葉に起こしていくっていうのが写生システムだったのかな。一般的な(と想定される)価値観を前提にしているっていうか。

うしお
この問題について、ぜひぜひ読まれてほしい評論があり、小原さんが角川の2019年10月号に書いてるやつなんで、前のやつだし長々引用させてもらいますが、

「仮想の読者を念頭に置き、個々の表現がどのように読まれるか推測しながら「言わなくてもわかる」要素を極力省くことは、表現の効果を最大化するための基本的な技術である。
しかしここで設定される仮想の読者とは、既存の社会的・文化的通年の内在化にほかならない。……(中略)……短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか。作家において或る権力関係は利用し、別のものは拒むという姿勢は都合が良すぎるだろうか。……(中略)……短歌定型は、言葉が個人の自由になりえないことの恩恵と弊害とを真正面から受ける構造をしているのだと思う。結局は地道に言葉の用例を重ね、意識的な評によって読みの先例を作ってゆくほかなさそうであるが、それは短歌を以て短歌に、言葉を以て言葉に抗うような困難を伴うだろう。」 小原奈実「沈黙と権力と」

いやあ、たった見開き一ページの評論なんですけど、だいじなことぜんぶ言ってあるんですよ。

たじま
まさに、既存の社会的・文化的通年の内在化に抗う地道な積み重ねのための多様な文体ですよ……。ここ2時間くらい話してた話がおおむねぜんぶ入ってた……。
〜〜〜完〜〜〜。

うしお
わたしはいまのわたしの手持ちの文体しかもってないので、そうなるとできる抗い方が『予言』と斉藤斎藤しかなくない? となってしまうよ…… 好きだが、やりたいかと言われるとどうかなあ。

たじま
うん、まあね。『予言』と斉藤斎藤で並ぶんだ。鈴木ちはねと斉藤斎藤ではなく、『予言』と『人の道、死ぬと町』でもなく

うしお
なんとなくそうなっちゃった、鈴木さんはツイッターにいるので人間っぽいし、斉藤斎藤はもう名前とか、あと近作とかからしてももう総体として斉藤斎藤というパッケージなんだなあと。

たじま
鈴木さんは歌会で会うから人間っぽいんじゃないのかな。それって抒情から逃れつつ口語リアリズムをやる、みたいなこと?

うしお
というかその、写実的文体だと抵抗の方法がアイロニーしかないんじゃないのか、(だったら困るんだけど)ってことを考えてるんだよね。

たじま
アイロニーか、写実的文体からは外れるけど幻想か、あとは瀬戸夏子……?

うしお
写実の延長で素直に短歌的抒情をやるって文体もあろうけど、結局何をやっても世界の肯定にしかならなくない?

たじま
短歌という既存の価値観を内在化しがちな詩形でさらに写実的文体をやると世界の肯定になるってことですよね。

うしお
歴史を振り返るに、戦争を憎みながら前衛歌人になるってやつにすごく納得いってしまった。

たじま
うん……。戦争じゃないけど社会と国家のやばやばを目の前にして生活がわやわやにされちゃうとね……。

うしお
はーーどうしたらいいと思う? こんなんだったら歌会やりまくってた頃に幻想か瀬戸夏子の練習でもしといたらよかったかしら?

たじま
うしおさん幻想耐性なさそ〜〜。

うしお
わかる~ いや、こんなのは言ってみただけであって、別に自分の文体をやめたいとかそういうことではないんだけどね。その時できることで一番いい歌が作れそうな方向を手さぐりしていたことの結果として今の文体になっているので。

たじま
私はなんか、幻想とか騙し絵みたいなことができないかな〜という気もしてる。見間違いとか、別の可能性とか、幻想の一歩手前のことに行きかけてるのかもしれない。でもあんまちゃんとつくってないからやらなきゃですね。

うしお
たじまさんに幻想の道があるのはわかる。
通れそうな道を通ってきたってだけで、あらゆる選択肢を吟味しようとはしてなかったので他のあり方について考えたりはしちゃう。あと最近自分にもやや情緒が増えてきたことがわかるので、通れる道も増えてないかなあ、とか思ったりもするね。

たじま
でも川野芽生さんの『Lilith』を見てると大変そう(あの域に私が行けるとは思えん)だからひぇ〜〜って気持ち。まあ、手探りでなんとかしていくしかないですね。

うしお
そうですね。

たじま
こんなところで。おつかれさまでした。

うしお
おつかれさまでした。

 

うしおに差し入れする

たじまに差し入れする

第2回 『広い世界と2や8や7』の話

 

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うしお 
こんばんは

たじま 
こんばんは

うしお 
前回分の文章を直していて気づいたんですが、

たじま 
はい

うしお 
わたしたちオンライン短歌市に出たいと思っていたわけなので短歌の話をしなきゃいけないですね。

たじま 
あ〜〜〜。そういえばそうですね。短歌の話をしましょう。

うしお 
たじまさんの短歌的近況はいかがですか?

たじま 
2020年、私たちの先輩にあたる歌人の歌集がたくさん出版されましたが、最近気になる短歌の話題といえばやっぱり永井祐歌集ですね。

うしお 
われわれの先輩って導入したのに直接の先輩ではなかった永井祐の話になったのウケてる。

たじま 
しまった。話のまくらにしちゃった………。先輩というのは、笠木さん、阿波野さん、榊原さんのことですが、一番最近なのが永井祐歌集だったので……。

うしお 
わかるよ。あと学生短歌会の範囲で言えば川野さんも先輩の気持ち。

たじま 
わかる。『予言』も先輩感ある。

うしお 
わかる、オンラインで歌会をご一緒するからなのかな。

たじま 
年代的に先輩だからね……。あと山階さん、吉田恭大さんも先輩。

うしお 
範囲を2020年より遠くにしちゃうとどんどん広がるのでは。

たじま 
たしかに。2020年がぼんやりしていたので範囲もぼんやりしちゃった。
先輩方の話はまたしますが、『広い世界と2や8や7』、読みましたか?

うしお 
読みました読みました。

たじま 
『広い世界と2や8や7』、略して2や8や7、よかったです。いや、よかったというのもなんか悔しいんですが。

うしお 
くやしいんだ。

たじま 
実は、初読のときにはひさびさに歌集を読むのもあって、あんまりよくわかんなかったんですよね。永井祐さんのこれまでやってきていることを知っているし、なにより自分もおおむね口語のリアリズムの流れなこともあって、だいたいなにをやろうとしているのかはわかるんだけど、そうは言っても全部の歌が同じように見えてしまった。そんなにすごいかなあ、みたいな。

うしお 
そうだったんだ、わたしは最初からチューニングが合ってて、なんかすごいのが来たなって思って読んでた。

たじま 
いいな。私は初読のときは、すごいぞ、というテンションにあんまりならなかった。都市で生きる主観の機微が口語の微妙なところに立ち現れるんですね、そうですか、ってなったんだけど、二回目にちゃんと読むとあ〜〜〜すごいな〜〜太刀打ちできね〜〜〜くやしい〜〜みたいな気持ちにはなりました。

うしお 
確かにこれがすごいぞって思えている事態もちょっとふしぎな現象なのかもしれない。同じように見えるという気持ちが生まれることも想像に難くないですね。

たじま 
最初にすごいぞってならなかったのは私の短歌チューニングがオフになっているときだからだったんだけど、同時に、短歌がよくわからなくなってるってことかなってちょっと不安になりましたね。
ま、それはそれで、私が勝手に作り出した「みんなと同じようにわからなきゃ」っていうプレッシャーを真に受けるのはよろしくないとは思って、とりあえずは放置してまた読み直そうと思っててたところ、読んだらよかったのでよかったです。
でも、「最近歌集を読みはじめました」というようなひとにいったいどうやってこのすごいな〜〜を伝えればいいのかよくわからない。
うしおさんのすごいぞ、どの辺でしたか?

うしお 
うーん、待ってね、2や8や7をどこから話せばいいかな……。
ちょっと遠くからはじめるけど、こないだ短歌じゃない人に短歌ってこんな感じなんですよって話をする機会があって、そういうときに説明材料として引用しやすい短歌って、景から心情を読み取らせるやつとか、比喩による認識の更新とか、詩的飛躍によって感情の切実さを担保してますよとか、そういうレトリック上の読みどころがここですってわかりやすいやつになるじゃないですか。

たじま 
短歌の中にある技術を説明するってことですね。

うしお 
「都市で生きる主観の機微が口語の微妙なところに立ち現れるんですね」って言えちゃうやつ、そこそこ作品が蓄積されてきていっぱいあると思うんですが、このラインの歌たち、さいきんどんどん読みどころとしてのレトリックが説明しづらい流れになっていってない?って、2や8や7を読んで思ったんです。

たじま 
口語・都市・機微を読むタイプの短歌におけるレトリックの現状として?

うしお 
うん。2や8や7読んでの思い付きだから全部に敷衍できるか分からないんだけど。技術がないわけじゃない、すっと読ませるためのいろんな工夫みたいなのは凝らされてるはずなんだけど、その技術の内実を分析をしなくても歌のよさを鑑賞できるじゃん。2や8や7すごいぞって即思ったけど、どこがすごいのかけっこう言いづらい。

たじま 
技術があるなと思っても、技術の存在に気がつかなくてもすごいってことと、技術に気がつきながらも技術をぱっと分析できないってちょっと違うような気がする。後者はすごいとはまたちがうんじゃないかみたいな。単にこちらの分析能力の話になるよね。

うしお 
ああ、こういう話をしてしまうのは、今までわたしが長い間情緒がぜんぜんない状態で暮らしてきていて、すごいって思うことと技術的になにが起きてるか考えるということがけっこう一緒だったということがあるのかもしれない。

たじま 
情緒なかった。

うしお 
なかったの。感受性もなかった。

たじま 
ええと、私はどちらかと言えば、技術の洗練より、よくわからないけどすごくて、技術が分かってもすごいのってすごいよね、ということをいいたかったんですが……。

うしお 
それは、つまり、意図がぜんぶ分かってしまうとつまんなくなるときもあるよねってこと? もちろん、すごいって思うことと技術的に分析可能であることが別であることは理解してるつもりなんですが、技術的な分析のほうを通ってはじめて情緒に回り込めることがわたしの経験上は多くて、で、そういう種類の人間がいるということをよく理解しているために、すごいと思えた時はなにがすごかったのかできれば分析してあげられたらいいなって思うの。

たじま 
私は「よくわからないけどすごい」ものは技術分析ができないからわからないときもあるけど、魂の迫力、みたいなもののすごさを説明するのに言葉が追いついていない(将来的に技術として分析されうるかもしれないが)ときもあるんじゃないかと思っていて、できれば知らないすごさに圧倒されたいのかもしれない。
分析できなくても数十年後にこういうものがありましたと記録があればいいかな……われわれもできる限りのことをしますが、できなくてもまたそこですごいと思ったひとががんばって分析してくれるでしょう……完……。

うしお 
「よくわからないけどすごい」という体験、わたしもたくさん作品を通ることでだんだんそういう感受の回路ができてきた感じがするし、意味わからんけどさいこーってなって打ちのめされるのは好き。でも自分が分かってない側の人間だったときに、魂の迫力がすごいですって言われてもあんまりうれしくないし、「人間が描けている」的な話とかもそうだけど、この手の評語ってずいぶん恣意的に使われるから、そういうものを求めつつも警戒しちゃうというか。

たじま 
それはそうですね。魂の話するのうさんくさくてやだもん。魂とかうるせ〜ってきもちになる。

うしお 
2や8や7に戻るとさ、ふつうこの程度派手な出来事・感情があったらそれが短歌になりますってラインがあるとしたら、いままでそのラインよりも手前に留まっていたから認識の上で焦点化されてなかったことたちが言語化されてることがうれしいのかなあ、ということを考えたりしている。
掬われしのち金魚は濡れるとかの、派手に世界の見え方を書き換えようとする歌じゃないけど、これもある意味でわれわれが(短歌的に抒情するような大きなことは)何もないと思ってたところに、それが何もない状態であることを認めつつ何もない様子を見せてくれてるっていうか。
これって写生ってやつなんじゃないの!?

たじま 
写生だ〜〜〜!!!
観察を通してものに入り込んで微細ななにかを見つけ出すのって、短歌で取り上げることをどこまで細かくしていき、かつ抒情していけるかって話になるような気がするけど、そういうどんどん細かくなっていくルートじゃないのが2や8や7のような気がしますね。
ものの観察じゃなくて、ものを観察したりしなかったりする認識の方を掬い上げる感じですよね。

うしお 
そうそう、微細な細部に注目して”リアリティ”を担保するってやつじゃないんだよね。

たじま 
「言われてみればそうなっているものがある」ではなく、「そう言われてみればそういう認識がある」ような気がするのが2や8や7。
たぶん、ものの細部を示されたら、ものが現に短歌で示された通りであるっていうことは読者の側でもそれなりに確認できて、リアリティになるのかも。でも認識だと、そんな気がする、なんとなくわかる、くらいになるのかな。<仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす>とか。

うしお 
これってさあ、最近の口語都市詠への評語としてはやり?の「認識を再現する」ってやつなのかなあ? どう思う? わたしこの評語ときどきよく分かんないんだよね。

たじま 
流行り定義がふわっとしてるけど、まああるよね、そういう評。でも、「認識を再現する」って「ほんまか?」という気もする。うしおさんのよくわかんないとは?

うしお 
流行ってた印象だったから言ってみたものの、ちょっと、総合誌追えてないから自信なくて……。
2や8や7についてなら、認識が再現されてるって言われても分からなくはないんだけど、認識の再現って言われるとき、認識がリアルに再現されていればいるほど偉いみたいな前提を感じることがあって、「ほんまか?」と思うんだよ。

たじま 
私の「ほんまか?」は、その再現されたと思っている認識はあなたの(読者の)ものだったんですか? 歌に再現させられてる認識ではなく? という「ほんまか?」なんですが。
<仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす>って言われたから、自分にも「仕事してするどくなった感覚」があり、それを「レールの線」に合わせたことがあるような気がしていて、そう言われてみたらある! と思っているかもしれないけど、言われたからその認識ができたんちゃうか、という微妙な座りの悪さ。

うしお 
そっちの「ほんまか?」なのね、それも分かるな。
どこでだったか自信ないんだけど阿波野さんの歌にも認識の話が言われていたことがあったと思って、これは2や8や7に言われるよりももっと腑に落ちなくて、この歌って認識を再現することを目的に作られてる? むしろこの単語を入れたかったとかこの韻律でつくりたかったとか、短歌的な落としどころをちょっとだけ裏切りたかったとか、そういうことに駆動されてた面が大きいんじゃないの? って感じでもぞもぞしちゃうんだよね。

たじま 
結果として認識の再現と受け取られているけど、評価するところやされたそうなところはもっと別にあるだろうってこと?
阿波野さんの歌だと阿波野さんがなにをしようとしてるか本人談でなんとなく知ってしまっているという先輩後輩トークにもなりますが。

うしお 
ビギナーズラックについてはそう思ってる。あ、これ後輩トークになるのかなあ、まあ歌を読んで、この歌のころこんな話してたよなとかいろいろ思い出しちゃったりしてあれなんだけど、阿波野さんが認識を書きたいと思ってるかどうかは正直知らない。
でも2や8や7にしろビギナーズラックにしろ、短歌的にやりやすい語彙・構文・韻律・主題はこのあたりですってエリアから外れるという試みをやるってことは、そういう短歌的なものからはみ出す”リアルな認識”を提示してるってことになるのかなあ。
まあでも私が阿波野さんの歌とめちゃめちゃ近くで暮らしてきて今の読みになってることを考えるに、永井さんの歌とめちゃめちゃ近くで暮らしてきた人は287にもまた別の読みどころや技術的分析を見出しているのかもしれない。

たじま 
まあ本人が話すことを聞いて知っていることは(とても関連が深いとは言え)歌とはまた別の話なのでひとまず置いておきましょうか……。永井さんの歌をリアルタイムで歌会で見ていたひととかね、そうでしょうね。私も『ビギナーズラック』のこと、まじでわからないんですよね。先輩の歌だなあという感情。ラの話すると同窓会的にもりあがっちゃう。

うしお 
ここまで永井さんの歌、じゃなくて2や8や7って書くことのほうが多かったのは、287を読んではじめて言語化ラインの一歩手前が歌になってるのね、って理解できたからで、ビギナーズラックを歌集として読んだら(近すぎてまだできない)また感触がかわる可能性もあるかもと思う。

たじま 
レトリックの面で短歌の既存のレトリックからはみ出す試みをしようとしたら、結果として認識がとても微妙なかたちであらわれて、結果を受け取る側としては、それを微妙な認識というものとして受け取る、みたいなことなのかな。

うしお 
これってさっきたじまさんが言った「ほんまか?」の話になるっていうか、従来の短歌的エリアからはみ出たものを読者が読解したというそのことによって、そのはみだしに”リアルな認識”という名前がつくってことだよね。

たじま 
つまり、作者としては既存の短歌とはすこし違う技術を使ってみたところ、既存の短歌とは違った認識の感じが生まれて、読者はその短歌を、新しくリアルな認識を表現するために技術が使われていると思う、ということになっている?
だから、もとから認識再現度の最大化を目的にしているわけではないけど、技術開拓をしていくと結果としてそういうことになるのかな。

うしお 
そういう感じのことが言いたかった、結果が目的に取り違えられてるのでは、みたいな。287は認識の提示をしようとしてるって言われることには、読み味としてけっこう納得いくんだけど。まあでも作者の目的意識なんか分からんけどね。

たじま 
まあね。作者の目的意識でちょっと思い出した余談なんですが、奥村晃作さんのTweetがすごいんですよ。「お互いに愛し合っているから」って。

うしお 
お互いに愛し合っているから!!!!

たじま 
そのとおりですね………………。

うしお 
あと、さっき写生じゃんって話をしたけど、なんか、287にチューニングを合わせた状態で近代短歌とかアララギを読んでいくとけっこういい感じに波長があうんじゃないか? ということを考えたりもした。

たじま 
認識〜って気持ちで読むと近代短歌も認識の歌として読めるじゃんってこと? 佐藤佐太郎がわりと認識と主観をやるぞ! って感じなのはわかる。

うしお 
認識っていうか、レトリックのあらわにされない感じの感じが
ほむほむが、酸欠世界の話をしていたときに、現代社会は酸素が足りてないから(かんたんに社会認識と作品を結びつけちゃう手つきになんやねんとは思うが)現代に豊かな世界を描くためには細部への注目というレトリックによってリアリティを担保しなきゃいけないという話と、それとの対比で、むかしは世界の酸素が豊かだったから(なんやねん)そういうあらわなレトリックなしで豊かな世界が描けていたんだよ、という話をしていて、社会認識はともかくも、レトリックを顕わにするというのではないやり方で作品を成立させているというところに、287とむかしの写生への共通点を見てしまうというか。

たじま 
現代社会の物質的豊かさに反するこころの余裕のなさ」みたいな世界観、そういえばありましたね。むかしのって、つまり文明とか茂吉とかが写生ってことを言い始めたときのってことでいいのかな。レトリックなしかというとそうでもないだろうとはおもうけど、作為的なレトリックをあらわにしない感じはありますね。
レトリックを駆使しない、難しい言い方をしないでも通じる歌をつくっていく方向なのかな。

うしお 
そう、なんだかんだちゃんと読めてない・読んでもピンとこずに流れてしまった歌集が多いから、287にのってるいまこそ近代短歌について考えなおすときでは? と思いついたり(思いついただけだが)してる。

たじま 
文明とか茂吉とかね……なんだかんだちゃんと読んでないままですね……。

うしお 
いやあ、でもとりあえず”レトリック”って呼んできた概念のことも正直よくわかんないのよね。
実作者的実感として、自分がやってることがどの程度レトリックにあたるのかもよく分かんなくて、何にせよなんとなくいい感じになるところまで推敲するってことには変わりないじゃん。でもこのなんとなくここって自分が思うあたりといわゆるレトリックとが同じものとはあんまり思えないし。

たじま 
自分で作るときは、派手なことしようとするとレトリックになるってことはわかる。絵で言うと、俯瞰にしてみたり、切り取り方を工夫したり、がんばって構図を考えるみたいなことを短歌でがんばるとレトリックになるんですよ。そういうがんばりをする負荷があるとレトリックになるんじゃないのかな。たとえたら余計感覚的になっちゃった。

うしお 
ほむほむは昔の歌は〈構文〉(=高度な個人技)がなくても豊かな空気感を持っている(それは世界の空気が豊かだったからだというのにわたしは同意しないが)とか吉川さんの歌は自然っぽいけど〈構文〉によって支えられてるとか、前衛短歌の手法が時代と共に単なる道具になってしまったとかの話もしていて。
そのあたりの材料から勝手に整理と図式化を試みるなら、レトリックとか手法よりも先に作品が出てきて、それが時代と共に何をやったらどんな効果が生まれるのかが分析されてだんだんレトリックという道具として使われるようになった、とか?

たじま 
最初はレトリックや技術や道具ではなかったものが、分析されることによって効果を伴う道具になったってこと?

うしお 
そんなかんじ。

たじま 
最初は天然の産物で、養殖されていくレトリックくん……ハッピーバースデーだ!

うしお 
そう、口語の写生ハッピーバースデー

たじま 
ハッピーバースデーならおめでたくていいですね。道具化というと非倫理的な感じもありますが。たとえにするとどっちにも行けちゃう。

うしお 
まあ、あの、これは単なる思いつきの域を出ないというか、人間って頭の中で同時に煮込んだものをなんでもくっつけてうれしがっちゃうようなところあるじゃない、だからほんとはここからちゃんと調べものをして考えを煮詰めるべきなんだろうけどね。

たじま 
くっつけてくと嬉しいから……。
ところで、2や8や7だと、「この都市生活者め!」という感情も生まれるんですよね。

うしお 
あーねー。

たじま 
べつに都市生活者が悪いわけでもないんだけど、地方在住者としての気持ちもある。東京に比べたら、日本全国の地域はたくさんの文化的な選択肢があるというわけではないじゃないですか。公共的なものだけでなく、エンタメ的なものも、経済の中心地である東京に集中しているわけですよ。そのような文化と経済の集中構造をそのままにする方向に進んでいる社会の問題なんですが。
そういう構造のなかでは、東京が特殊で特別な場所であるにもかかわらず、東京が無徴のものとされるような気がして、「この都市生活者め!」って気持ちになる……。

うしお 
日本語コンテンツにおける「東京」の特権性の話かと思ったら主に現実世界のアンチ東京のはなしだった……めちゃめちゃわかるが。

たじま 
アンチ東京の気持ちと混ざった。

うしお 
まあそうねえ、東京の利便性を享受してはいるけど、東京に住み働いていると、東京だけが日本やと思ってんのちゃうぞ、みたいな腹立ちに襲われることはまあある。

たじま 
ゆううつな雲の下には鴨川が流れていてきれいな向こう岸
たけのこの里が楽しいときがきて名古屋の雲を思い出してる
という歌あたりは、京都と名古屋を有徴なものとして言うじゃないですか。そのひとにとって普通の感覚なんだろうけど、それがふつうの感覚として一般に理解されることのえぐみはありますよね。
まあ、京都にいたときは京都もまた別の文化的権威を持っているので「東京が来い」と言えたんだけど、名古屋に住んでいるわたしも、名古屋を一地方として扱ってしまって、一般的な都市としては扱っていない。でも、東京だと都市というのは東京のことですが、という顔をするじゃないですか。
しかも後半に<赤羽駅から商店街を抜けていき子育てをする人たちに会う>という歌などを含む「北区」という連作があり、そこに生活するひとというローカルな目線を入れてるのが、この……都市生活者め!

うしお 
北区、短歌研究の特集かなんかだったのでは? 287の中で見るとみょうな具体性があってやや引っかかりはしたかな。まあ総合誌が東京23区特集をやるのも正直意味わからんっていうか、知らんがなってやつやけど。

たじま 
東京のなかの地域性にあらためて着目するのも、いや、わかるのよ、たとえば地域の歴史に改めて目を向けて、いる場所の文化を知っていくというのは、地域の文化にとって重要なことであるというのは、わかるんですが……。「北区」のはなしするとちょっと話ずれますね。
2や8や7では、都市に生活するひとがいろんな空間や出来事やものを見て、そこにあるものをそれとして示してくれるって感じだと思うんですよ。
そこにあるものをそれとして見る感覚におお、となると同時に、そこにそれがあってあるなあと見ることができるのはあなた(歌のなかのひと)が都市生活者だからですよね?という気持ちにさせられる。
もっと社会の話をしろといいたいわけではないけど、都市生活者の特権性の存在を感じてうっとなる感じかな。認識のはなしをしてるのはわかるが、その認識を精査する余裕があっていいですね、という意地悪な気持ちも湧いてくるよ。

うしお 
東京における都市生活がどんなものか読者みんながすでに理解してくれてるから、いろいろ説明しなくてもそこにあるものをそれとて見て歌にするってことが成立するのがいいですねってこと? それかそもそもそこにあるものをそれとして見るという暮らしにおいて権力構造を意識しなくてすんでいてよいですねってこと?

たじま 
東京の都市生活が都市の共通イメージとしてあって、説明する必要がないのは単純に負荷が少なくていいですねとも思うが、それ以上に後者だと思う。ちょっと後者のことがまだ言語化できないんだけど……。

うしお 
ええ、投げられた。わたしは前者はやや思うけど後者はそんなに思わないかなあ。

たじま 
<少量のガパオライスをたいらげて無印良品へいくあいだ>に、都会はいいですねってノリで、「無印良品がない場所もあるんですよ」とはそんなに思わないけど、似たようなことなのかもしれない……。
この話、長くなりますね?

うしお 
なると思う。

たじま 
そうですね。都市生活者があらわれる口語リアリズム短歌の話、また次回にしますか。

うしお 
しましょう、今日はもう遅いのでおつかれさまでした。

たじま 
ねむくなってきちゃった。おつかれさまでした。

 

うしおに差し入れする

たじまに差し入れする

第1回 オタクとなろう小説と美の話

 

たじま 
こんにちは

うしお 
こんにちは 

たじま 
この「現代短歌よもやまばなし」は、うしおさんと私、たじまがふたりのトークを公開するブログ企画です。
2月21日にオンライン上の短歌限定即売会「オンライン短歌市」が開催されるということなので、私もなにかやりたいなと思っていて。で、うしおさんといつもしている話はおもしろいと思うので、オンラインイベントまでの期間に喋っているところ公開して、イベントで冊子を発行するというのがちょうどいいんじゃないかと考えました。

うしお 
たじまさんとお話してるときそれなりにおもしろい話になっている気はするけど、いざ何を話そうかと考えると迷いますね。

たじま 
そうですね。なにがおもしろいのかというと、たぶんわれわれが喋っているときは現代短歌を共通言語として話していて、世界を現代短歌を基準に見てるところがおもしろいんだと思いますが、それがどういうことかは喋らないとわかりにくいですね。はじめに観測範囲の話をしたほうがいいのかな。

うしお 
いつも通り近況報告からはじめます?

たじま 
そうですね。最近なにか見ましたか?私は『国葬』を見ました。スターリン国葬のドキュメンタリーの。

うしお 
うーん、虚無のほうが多かったかも。国葬行きたかったけど出かける元気もなくて。あんまり虚無なのでツイッターピクシブのアプリを消しました。

たじま 
虚無……。

うしお 
ふだん虚無のときはだいたいツイッターピクシブの二次創作小説とかを読んでるから、それをやめようと思って……。でも結局虚無になってなろう小説を読んでいたのであった。

たじま 
だめじゃん。

うしお 
そう、だめなんです。

たじま 
二次創作小説のプロはすごい。どんどん時間が溶ける。うしおさんの二次創作ジャンル(見る方)の話とかしていいんですか?

うしお 
別によいですよ。

たじま 
私はふわっと……映画とか…ファンフィクションとか……そういうはなしなら……繊細なジャンルなので…………。

うしお 
でも今回たくさんなろう小説を読んで、キャラヘイトという概念(いままで謎でしかなかった)を理解しはじめたかも。

たじま 
キャラヘイトという概念というと、作品世界全体で特定のキャラクターが嫌われている雰囲気があったり、キャラクターへの苛立ちが強調されているタイプの作品のことですか?虚無じゃん。

うしお 
たぶんそう。あと、オタクファンダムを回遊してると、作者がこのキャラをちゃんと遇してくれてない、という主張を見ることがあって、なんでそういう主張が出てくるのか全然分からなかったのだけどそれの背景もつかめはじめた気がする。

たじま 
その主張があるのはわかる……。作者の思想が扱いきれていない!と読者が主張するのは、読者の側がそのキャラクターのいい感じの可能性や伸びしろを読み込んでいて、その想定している可能性を作者がお話にいれてくれないっていう感じかな。
読者の側の読みと作者との関係については、うしおさんが前に言ってた、仮定された作者の意図を読む理論、あれはわりと納得でしたね

うしお 
うーん、作者の思想が扱いきれてないやつ(って作者が思想的に未熟でそれがキャラの扱い方に現れてるってことだよね)は、批判するとしたら作者の思想的未熟さであって、作者がわたしの好きなキャラのことをちゃんと扱ってくれてない、とかいう話になるのが謎だったんだよ。オタクファンダムの一部では、作者の思想じゃなくて、推しキャラが良い扱いを受けたか、幸せになったかどうかっていうのが判断軸になってる感じがしてて。

たじま 
謎なんだ。謎なことの方がわりと不思議というか、感情的な納得の仕方としては、作品を批評することよりは、人格のある作者を批判することの方が簡単なのでは。

うしお 
えっ、そうなの? 人格のある作者を批判することって、具体的にはどういうこと?

たじま 
えっと、読者にとっては「作者がキャラクターを嫌い」って思う方が、作者の思想が作品に反映されていることを前提に作者の思想的な部分を読み解くよりも楽なのでは?知らんけど。

うしお 
へええ、「作者がキャラクターを嫌い」って発想のほうが私には難しかったんだけどな。あとキャラクターを嫌うって気持ちも割と理解できてなかった(これも今回ようやくどういう概念なのか理解しはじめたけど)。

たじま 
うしおさんは作品世界の一部としてキャラクターを認識しているってこと?

うしお 
そうそう。

たじま 
なるほど。「キャラクターを嫌いになる」のは、作品への没頭が理由にあるのかな。
没頭しているので、作者という存在が透明になり、キャラクターへの好き嫌いがまず語られる。

うしお 
たぶん私がオタクやってるのがユーリオンアイスと進撃なもんだからこうなるのかな。どっちもヘイト用のキャラって出てこないじゃん、だから愚かさも失敗も愛すべき人間性の一部であって、それを愛すべき人間性の一部として描けてないんだったら、むしろ作者の技量か人間認識に問題があるでしょって思っている。

たじま 
う〜ん、そのヘイト用のキャラって、魅力的な悪役もあるけど、それよりもっと薄っぺらいキャラクターってことですよね。

うしお 
オタクアカウントで暮らしてるとあんまり作品世界の一部としてのキャラって発想あたりまえじゃないっぽくてさ。ユーリオンアイスだと作品の本性としてヘイト的な概念は出ないと思うんだけど、進撃だと、どうも特定のキャラクターが役に立ってないとか愚かだってことを真剣に批判したり、作者が特定のキャラクターを大事にしてくれてないってことを言う人がいなくもないみたいで。

たじま 
「オタクファンダムと批評」って話をするのもおもしろいですね。わたしはインターネットオタク文化に染まってきたオタクなので、バイアスが強いしオタク文法に慣れてしまっているけど。まあ、特定のキャラクター(ハンジさん)の話はまた回をもうけますか。わたしが進撃を読んでからにしてほしいな。

うしお 
わたし短歌やるまで自我なくて、この自我を得たあとオタクをはじめたのでファンダムを見て不思議なきもちになって暮らしてたんだよね。
虚無のあいだ、本好きの下剋上ってやつを読んでて、めちゃ長なのを全部読むぐらいには面白がりつつも、ふつうにヘイト用キャラとかを出してくる作品ではあって、オタクの人たちってこういう感じの価値観と発想だったんだ~って。

たじま 
わはは。ヘイト用のキャラクターっていうと強い言葉だけど、作品内の主人公の敵であるキャラクターってこと?

うしお 
なんていうか、主人公たちの敵対側にいるキャラクターで、愚かだったり自己中心的だったり容姿が醜かったりそのほか「よくない」属性を与えられて振る舞ってるキャラクター。単なる敵側ってだけじゃなくて、基本的に読者が好きになりうるキャラクターの候補としては作ってないやつってことを言いたかった。

たじま 
ふむふむ。『本好きの下剋上』は「本がない世界に転生した本好きの娘が成り上がる」って感じですか?

うしお 
そうそう、それをタイトルにするほど主な読みどころかっていうと違う気もするけど(まじめに本好きの下剋上そのもののはなしをするなら階級社会における身ぶりとか大人と子どもってなんぞやって話もあるけどまあそれはいい)。

たじま 
なるほど。「本好き」の情熱を理解しないひとは「敵」で、愚かな「一般人」みたいな世界観?
本はひとつのモチーフですが、「ひとの情熱がわからないやつは敵」って感じなのかな。「オタク」ではないひとびとが「オタク」を軽蔑して疎外してくる、という被害妄想的なそういう気持ちがなんとなく共通しているのところはあるかもですね、なろう小説には。

うしお 
あっ、まって、本好きはオタクかどうかはぜんぜん関係ない軸です。
ともかく、(たじまさんの話を聞いてると今まで理解できてなかった方がめずらしいのかもだけど、)物語について話をするときに、作者はこのキャラクターをよく遇してくれてないとか、そういう発言が出てくる背景の価値観が分かったというのが今回の私の発見なんですよ。
この作品、やや勧善懲悪的っていうか、悪いことをした・愚かな人物は断罪されるべきだし主人公側の価値判断で断罪できるって価値観があるところがあって。つまり最終的に、善き人物は救われるし、悪しき人物は報いを受ける、みたいな。

たじま 
うん?勧善懲悪はそりゃあすっきりするんだろうなと思ってましたけど、「なろう→単純な勧善懲悪的世界観」があると理解したことが「作者がキャラクターを不遇することへの批判」の納得につながるのがいまいちよくわからない。

うしお 
えーっとね、たくさん人が出てきて世界像がけっこうある物語でも勧善懲悪とか公正世界仮説とかがけっこう信じられてるんだなってことが分かって勧善懲悪的世界観の強さを再認識したというか。つまり、善なる(or 有能な)キャラクターと悪しき(or 愚かな)キャラクター、救いを受けられることとひどい目に遭うこと、読者が好きになれるキャラクターと読者が嫌いになるキャラクター、っていう軸が全部合致するものとして扱われてるんだ~っていう発見。

たじま 
なるほど〜。言われてみれば、それが結びついているのって不思議ですね

うしお 
そこ一致すべきだと思ってるんだったら、そりゃあハンジさんが問題を解決できないのはハンジさんが愚かなせいだって発想が生まれたり、逆にハンジさんが良い目を見られないことに傷つきました(作者は善き登場人物をちゃんと幸せにするべきだ)って発想が生まれたりするよね、と。

たじま 
かなり単純な世界観……。世界が本当は勧善懲悪的であるはずなのにって思うのは、なに……?

うしお 
公正世界仮説は現実世界においても存在するもの(というかそもそも現実世界についての話)なのでそれなりに分からなくもないけど、オタクとして物語を楽しむならそれだけだとちょっとつまんなくない?って思うんだけどな。

たじま 
わたしは世界が本当は勧善懲悪的なはずなのにそうではない物語を受け止められないのはオタク的なナイーヴさなのかなと思う……。

うしお 
それもっと詳しく教えて。わたしは逆に、オタクとしていろんな物語を楽しむっていうルートを通らないと世界は勧善懲悪じゃないって事実を受け入れがたかったと思っており。
気狂いピエロとかダンサー・イン・ザ・ダークとか、これはまだ大学生で情緒も育ってなかったときに見たんだけど、ぜんぜん勧善懲悪じゃないけど作品のパワーで説得されてしまって。人間は幸せになるために生きてるわけではないってふうに考えるのは現実世界ラインだけで人生をやってたらどうも難しくない?

たじま 
勧善懲悪を望むのって判官贔屓というか、感情的に同情できる方が勝ってほしい気持ちで、強い(と思っている)ほかのひとびとに比べて、オタクである自分は弱く、疎外されているという被害者意識があり、「弱い我々が不当に虐げられている」から「不当な強者に勝利する」話は好かれやすいし、いわゆるなろう小説は、作品がそういう欲望を直接解消してくれるんじゃないのかな。
オタクとルサンチマンの結びつきってオタクカルチャーの話でよく出てくる印象がある。オタクとは男性オタクのことであるっていうのが前提にある気もするけど。

うしお 
なるほどねえ、ルサンチマンのことは正直忘れてました、そういえばそういうのもありましたね。

たじま 
ルサンチマンの話あるよお。

うしお 
わたしは本気でオタクを始めるのかなり遅かったので時代的なこともあると思う。オタクって単に何かしらのコンテンツにものすごく没入している人ぐらいで言ってた。

たじま 
言葉はそうだけど、「オタク文化」の流れとしてルサンチマン解消ポルノが好きっていうのはあるんだろうなという理解をしてたんですが、いわれてみればこういうのどこからはじまってるんでしょうね。

うしお 
被害者意識かあ、たしかになろう系でも二次でも嫌われものの需要ってけっこうあるよね。さいしょ主人公が虐待されたり嫌われたりしているところからスタートして、でも主人公は有能なのでor白馬の王子様的な人に愛されたのでハッピーエンドです、みたいなやつ。

たじま 
ありそ〜。かわいそうってことがすでに気持ちいいんじゃないのかな。
でもべつに、オタク文化に浸ることで勧善懲悪的世界観とルサンチマンの解消を身につけるわけではないはずで、欲望としてふつうのことなのかな……。オタクのルサンチマンって話はあるけど、よく考えたらルサンチマンはべつにオタクに限らない。

うしお 
うん、オタクのルサンチマンのことは本当に忘れていたので、単にチープな物語というものはオタク文化関係なくそういうものなのかと思ってた。
チープだな~と思いつつ、虚無のときのわたしなんでも読むのでよく見る分だけよく読む。

たじま 
虚無の時のうしおさんに推し作品を送ればよかったのか……?

うしお 
えっとね、虚無のときのわたし映像見る環境を立ち上げる元気はなくて、漫画もそんなに元気なくて、文学性も思想性もない文字列が一番読める。

たじま 
気合のいる作品はだめですか。では今回はうしおさんがルサンチマンのことを思い出した回ですね。
べつになろう小説じゃないんですけど、「ハリー・ポッターと合理主義の方法」がよかったです

うしお 
じゃあ次の虚無のとき思い出したら読みます。

たじま 
ハリー・ポッターと合理主義の方法」は合理的思考をする科学者であるポッター少年の話で、科学的思考をしないひとを啓蒙すべき人々として見るところがちょっとなろうと近い。作中でその傲慢さをちゃんとともだちに打ち砕かれるのでとてもよいです。

うしお 
あっ、それはえらい。主人公が優秀なので世界を変える・好かれるみたいなチープな感情的よろこびって、基本的に主人公側の価値観に異議は挟まれないじゃん。チープだからしょうがないんだけど。

たじま 
めちゃくちゃおもしろいんですよ。マルフォイ少年の貴族的な血統主義を、合理的な思考にもとづいて一緒に遺伝を調査することでマルフォイ少年自身の手で打ち砕かせてしまうシーンはまじですごい。これまで友情を築いてきたハリーとドラコが、「こんな考え方を植え付けられてしまったらもうもどれないじゃないか、なんてことをしてくれたんだ!」って喧嘩するの。
主人公がチートという快感が、同時にその傲慢さによって本当に人を傷つけてしまった致命的なシーンになるんです。いちばんいいとこをべらべら言っちゃうの、オタクムーブでした……。

うしお 
いや別にいいと思うけど。オタクのはなしをするならまだ他にいくつか論点っていうか気になってたことがあって、オタクってほんとうにキャラクターの見た目好きなんだなあっていう

たじま 
そういえばそうですね、なんかオタクってアニメがふつうなのかな。わたしは小説とか映画とかばっかりでいまだにアニメっぽいジャンルにハマったことあんまない……。

うしお 
二次創作小説とか、本好きとかもそうだったんだけど、特に作品上必要性がなさそうなのにキャラクターの見た目をすごい描写するんだよね。普通の小説でも私が興味なくて読み飛ばしてただけだったのかな?

たじま 
でもそれって、一般的に絵の方が好まれるってことでは?小説より漫画が売れるし、漫画よりアニメが売れる。絵がある方がわかりやすい。

うしお 
あととにかく主人公側の容姿が美であるということにされるのに辟易している。

たじま 
美!ルッキズムはそうかもね。

うしお 
でもさあ、小説って絵がつけられるまでは絵ないじゃん。わたしそんなにキャラクター設定みたいな外見描写をされても頭の中で想像する気が皆無でなんか言うてるわみたいな気分になっている。

たじま 
そのへんルッキズムとしていいのか、ドストエフスキーが主人公はとびきりの美青年にしたりセクシーな美青年にして重要な少年は美少年にするみたいなことなのかよくわからないけど。
ドストエフスキーのやっているのは役割の重要度を象徴的に見た目に含ませるってことだと思うと、それもふくめてルッキズムといえるのかな。

うしお 
じゃあ単に外見描写がもっと上手ければ別に気にならないと言うだけの話なのかな。

たじま 
へただったのかな……。

うしお 
ルッキズムと関連はなくもないと思うが、物語においてキャラクターの属性が大事だというのはわかる。名前とかも大事じゃん。

たじま 
物語のなかの役割ってことですもんね。

うしお 
感受体のおどりというおれが大好きな小説があるのですが、人名ほんとうに最高なんですよ。月白、毬犬(まりーぬ)、霧根、走井(はしりー)、夕皿(ゆーさら)

たじま 
はい。短歌の話に戻すけど、短歌基本的にはキャラクターを要素にあんまりふくまないから絵にしづらそうですよね。
このまえ『滑走路』が映画化してましたけど、ひぇ〜って思って映画は見てない。

うしお 
ビッグイシュー買ったので映画化という話は聞いていたが、まあキャラクター要素は含まないよねえ。
短歌と映画だったら『田園に死す』がめちゃいいよ。

たじま 
歌集から具体的な脚本を立ち上げる作業、すごい。いやでも、田園はキャラクターでは、ない……?

うしお 
いや、べつに短歌の使い方が上手いとかそういうことでもないか。いい映画だったし、寺山的(しらんけど)だったし、短歌もちょっと出てた、って感じ。

たじま 
へえ〜〜。短歌ちょっとでてくるんだ。

うしお 
青森と子供時代と母親と、、、って感じで、ちょっとホドロフスキーみあったし。

たじま 
やった〜!ホドロフスキー

うしお 
寺山じゃん!!!(しらんけど)、となった。

たじま 
寺山のこと、よくしらない……。

うしお 
私も知らないけど、青森と子供時代と母親とから逃れられない感じとか、虚実混ざりつつ私小説的振り返りになってるところとか。

たじま 
青森、たいへんそ〜。

うしお 
書を捨てよ町へ出ようも見て、これは音楽や展開がけっこうウテナでおおと思ったんだけど、倫理的におすすめできない。

たじま 
寺山修司への感情があんまりないのでふうんと思ってたんですが、ちゃんと見よかな……。
短歌を持ち出したのは、短歌って顔の話をしづらいよなって思って。二次創作短歌でも顔の話はしづらい。

うしお 
田園は推したいですね。
顔とか外見の話、するのはちょっと文字数が足りないのかな? その話だけで一首にする意味もあんまり私にはわかんないし。

たじま 
たしかに、美醜の話って物語にはキャラの要素として必要だけど、短歌は物語をそこまでやらないからいらないのか?

うしお 
うん、そうおもう。あとそこを一首の中身として切り出しちゃったらまじでルッキズムの議論をするしか道がなくならない?

たじま 
ひとの顔を観察する歌とかはありそうだけど、ひとの顔を描写するのって意味が乗りすぎるのかな。
そう思うと、そもそもわれわれの社会がひとの顔に意味をもちすぎているということ?

うしお 
われわれの社会、そうなのかな。あんま考えたことがなかったのでよくわからない。

たじま 
よくわからなくなってきた。物語に登場人物の見た目が必要なのは、そもそも社会に人間の見た目が必要だからだっけ……。
人間に見た目がある!

うしお 
オタクの書くものにいっぱい外見描写があるからみんな外見に関心があるんだ~って思ったのが近年の発見だったけど、オタクが描写する記号的外見と、生きている人間が外見をちゃんとしようとするとか特定の外見を好きだったり好きじゃなかったりするのと、ってまったく別のもののように感じられている。記号的すぎて現実と一致させられてないだけなのかも。

たじま 
そりゃそうだ。人間に見た目があるというのは原理に戻り過ぎた。
記号的外見って、この顔は主人公顔みたいなやつですよね。

うしお 
えっ、そういう? 髪の色は何色とか肌が白いとかなんかそういうオタクが好きそうな概念かと。

たじま 
あっそういうやつか。あ〜〜〜なろう、いっぱいありそう。

うしお 
そうなんだよ。全部読み飛ばしてるが。

たじま 
おおまかには主人公顔と同じ話では。ツインテール少女的なキャラ萌え用の記号がたくさんある。

うしお 
ふむふむ。

たじま 
見た目をキャラクター属性と捉えて性格にまで反映させるのは、見た目にまつわる文脈とテンプレートがありすぎるのかな。そうやって見た目と性格をむすびつけることをすごく好きなのはなんなんでしょうね。
でも、わたしだって登場人物がカン・ドンウォンの顔をしていたら好きになっちゃうしな〜。

うしお 
わたしはこのあたりの認識精度がだいぶ荒くて、美・善・すごい↔醜・悪・おろか、みたいなのはつまんないからやめようよ~みたいな気持ちしかない。現実の役者さん入ってくるとわたしの把握を超えちゃうよ、、美の基準がわからん。

たじま 
美イコール善っていう方式、真善美だしナチュラルに受け入れてたけどまあルッキズムか。それはわかってるけど受け入れちゃうのはあんまりよくないのかなあ。

うしお 
ていうか作品批評の観点でいうと、美だと善きものになるんだったらもはや別に美って価値観を持ち出す意味もないじゃん、というような。だって結局それは善きものであることの同語反復にしかなってないし。
まあこれは文字列を読むからそうなのであって、漫画とか映画とかなら美しいものが表象されているということそのことが価値を帯びるというのはわからんでもない。いやでも、漫画だとめちゃめちゃ作画がうまくない限りは、むしろ美じゃない特徴を備えたキャラ造形をするほうが手間な気もするし、漫画のキャラクターの美醜ってなぞ。よく考えたらわたし、言語的に美かどうか示しといてもらえないと、絵や写真だけ見せられて判断しろって言われても自信ないわ。

たじま 
美に載せられるものを「善」ってまとめたけど、見た目には物語のなかでのキャラクター性やそのほかのいろんな意味が乗るから意味あるんじゃないですか?
なろう小説にかぎっていえば、アニメ的な世界観をもとにしてるから見た目の属性の描写がいっぱいあるのはわかる。同語反復だからいらないというのもちょっと乱暴なような気がする。
写真を見て美かどうかは、まあわからないし、美への意識は構築されたものなんだろうな……。
でも、美をそうであるものとして意味づけることがそもそも演出ってことでは?

うしお 
単にルッキズムに乗っかってる以上のなんの作用も果たしてないじゃん、みたいな気持ちからこう思っちゃうんだけど、演出の価値観が気に入らないだけなのかな。

たじま 
この作品のこの場面でこのキャラクターが美しいのは、顔の造作によらないと思う。美しく見える瞬間には意味がある。

うしお 
ああ、キャラの設定というのではなく、場面においてというのならわかる。でもそれ漫画や映画ならともかく、小説でやるのはむずかしそうやね。

たじま 
ええと、お話のなかで「美しい」と示すことが、「善い」その他の意味を持つってことと、キャラクターの見た目の記号的な描写が多いことは、ひとの顔の見た目に意味を持たせるという点ではおなじかもしれないけど、キャラクターの見た目には形骸的なものが流通している、ってことになるのかな?

うしお 
そういう感じ。ていうか場面において美を示すみたいなのって、虚無のとき読むようなものだとそれほど見ない気がする。

たじま 
たしかに。虚無の時は記号で読めるものばかりほしい。喉越しがいいので。

うしお 
そうなっちゃう。

たじま 
よく考えたら私は、美のはなしをいっぱいしてるはずの『判断力批判』はまともに取り組まずに通りすぎちゃったんですよね。

うしお 
わたしはそもそも通ってもないよ、美のはなしは作品の芸術的善し悪しとは別のよくわからないものの箱に入れてる。でも分析美学入門買っちゃったので読もうかなと思ってる。「仮構された作者の意図」とかも分析美学まわりの議論だったはず。

たじま 
キャラクターの要素としての見た目については、『テヅカ・イズ・デッド』が記号的なものである「キャラ」の定義付けをしていた気がしますが、かなりむかしに見ただけなのでもうなにも覚えてない。
仮想的作者の意図主義はその通りじゃんと思ってるし、そういう批評理論っぽい話を大学の時にちゃんと通っておけばよかったな〜と思いますね。

うしお 
わたしも批評理論みたいなのは一回もやらなかったからなあ、、

たじま 
さきに実践をしてしまったから……歌会で……。

うしお 
意図、いまゼミで、グライス以後の語用論は意味を話者の意図によって定義してるから、作品解釈はそのまま扱えないよね、哲学的にどうしましょう、という感じの話(をやればいいのでは)という話をしてる。思ったよりどんどん言語哲学よりになってきたよ。

たじま 
作品解釈はそのまま扱えないっていうのはどういうことですか?

うしお 
つまり語用論がベースにしている言語哲学的前提が、文の意味を話者の意図によって定義するという枠組みを使ってるから、話者の意図なんて知りませんがっていう作品解釈は、この枠組においては「意味」の定義から外れてることになってしまうっていう感じ。もちろんそれはちょっと納得し難いので言語哲学的背景から考え直しましょうねっていうのがこれからの予定になるのかな?たぶん。けっきょく私の個人的言語観を話すために短歌の話をせざるを得なくて、修論でも短歌を持ち出さざるをえなくなってしまうかもしれない、やだよう、という状況でもあるのだが、、、

たじま 
うしおさんは作品解釈を扱いたいから作品解釈を持ち出してるんですか?

うしお 
うーん、そうでもないかも。意図ベースで意味を定義するのが気に入ってなくて、(あと命題を前提にしてる議論があったりするのも気に入ってなくて)、そこを掘り下げようとすると作品解釈の話になってしまったというか。

たじま 
そもそも意図を前提にしてることに異論があるから、発話者の意図説で扱えないものには作品解釈がありますってことか。

うしお 
そうそう。当初は命題と真理条件のほうが気に入ってなくて、そこから先生と話しはじめたんだけど、理論的に掘り下げるならまず意図のことを真面目に考えなきゃねという風になってきて、、まあいろいろ検討途上です。

たじま
なるほど〜。また学問的進捗の話も聞かせてください。

うしお 
ゼミ、消化途中なのでうまく言語化できるかわかんないけど。歌会みたいだよなんか。

たじま 
歌人はぜんぶ歌会にしがち。ではこのへんでお時間ということで。

うしお 
おつかれさまでした。

たじま 
おつかれさまでした。

 

 

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