現代短歌よもやまばなし

現代短歌よもやまばなし

2021年2月21日開催「オンライン短歌市」にてまとめ冊子を発行予定

第5回 『海蛇と珊瑚』の話

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たじま
 
こんばんは。

うしお 
こんばんは。

たじま 
この前の口語都市詠の話で思い出したんですけど。

うしお 
はい。

たじま 
口語都市詠を話題にするのは、わたしとうしおさんがどちらかといえば口語リアリズムをやっているがゆえの自分の実践上の興味もあってだけど、そもそもわれわれの実践が口語リアリズムになっているのは消極的な理由もあって、短歌をはじめたときに自分でもできると思ったことをそのままやってきたからだよなあと思い出しました。

うしお 
確かにそれはほんとうにそうですね。他の人がどうかはともかく少なくともわたしにおいては……。

たじま 
わたしの場合は、きょうたんに入ったときにいた先輩である阿波野巧也さんや坂井ユリさんの歌を真似して歌を作りはじめていたので……。
でも、われわれの先輩には藪内亮輔さんや大森静佳さんもいるのに、そっちを真似しなかったよな〜ということを思い出しました。

うしお 
そうなんですよね、わたしの一回生のときは藪内さんも笠木さんも小林さんもいらっしゃったけど、一回生のときのわたしがそれほど歌会に行っていなかったということをさておいても、先輩たちの歌をすごいと思いつつもじぶんにできることとは思えなかったというのはあります。(廣野さんもいらっしゃいましたけど廣野さんは文語リアリズムよりなので別の話かな)

たじま 
そう、私はきょうたんの笠木拓さんとわせたんの山中千瀬さんのやってたネットプリントである「金魚ファー」を知ってきょうたんに来たのに、笠木さんフォロワーにならなかったな……。
大森さんや藪内さんの歌の凄みについておもしろかった話がありましたよ。一昨年の2月くらいに、橋爪志保さんがどこかでお話しされてて、 あんまり前後の文脈を覚えてないけど(武田ほのかさんの歌の話だったかな?)、印象的だったのでメモまでしちゃった。

わたしたちの世代は大森さんの「内に詩情への気持ちを秘めて歌を詠んでいく」とは別のやり方をしていくんじゃないか。それは武田ほのかさんやわたしのやっているような、対極の、あっけらかんとした歌の感じなんじゃないのかと思うんですよ

っていう話。この、大森さんや藪内さん(たしか藪内さんの話もしてたような)のあの凄みのある歌とはちがうことをわれわれの世代がやっていくっていうのは、確かにな、と思ったんです。いや、もちろん世代に括ることは難しくて、私がこれにたまたま当てはまっているだけではあるんですが。
藪内さんの短歌についてもいろんな話がある気がするけど、『海蛇と珊瑚』の批評会が感染症拡大期と重なって流れちゃったんですよね。

うしお 
いやめっちゃわかります、きょうたんでも大森さんや藪内さんのような作風は切れちゃったし(今の現役の方たちのことはわからないのですが)、最近の歌が「あっけらかんと」しているっていうのはほんとうにそうですよね。
『海蛇と珊瑚』の批評会、大辻さん黒瀬さん平岡さんパネルで島田さんが司会って、どう考えてもサイコーの布陣じゃないですか。 

たじま 
行きたかったな……。批評会で語られるポイントがいっぱいあると思うし、歌集に入ってる永田和宏さんの評以外にももっといろんな話を見たいですね

うしお 
行きたかった、っていうか一応アナウンス出たときは延期ということだったので将来の開催を待っています。はるカーの批評会も延期になっちゃいましたし、失われた批評会たちのことを思いますね。

たじま 
そうなの。延期されたりふわっとしている歌集批評会がいっぱいある!
永田さんの解説は、わりとパッとわかるいい歌を取り上げてたけど、もっと別の話もできると思う。でも歌集に入ってる解説としてはああいう感じがいいよね……。

うしお 
そうですよね、王道っぽい作品が主に取り上げられていた感じでした。

たじま 
『海蛇と珊瑚』の王道っぽいやつがとてもいいというのもわかるんですよ。解説でも取り上げてた〈月の下に馬頭琴弾くひとの絵をめくりぬ空の部分にふれて〉とか。

うしお 
「花と雨」とかど真ん中の名歌ばっかりですものね。

たじま 
そうそうそう。新人賞受賞作の「花と雨」も角川短歌が受賞作冊子をつくってくれて、すごく読んだ。短歌作り始めたとき、藪内さんの「しなせる」を会誌の「京大短歌20号」をもらって読んで、短歌ってこういうふうにやるんだ〜〜って素朴に真似したこともあります。

うしお 
おお、でもたじまさん、けっきょくやぶうちフォロワーにはいかなかったんですね。

たじま 
やぶうちフォロワーならずでしたね。なんでだろうな。
技巧的な、レトリックの構造を学んだところはすごくある。まあ、私はきょうたんに入ったときには藪内さんは卒業されてたので、あんまり直接お話ししたことはないんですよね。レトリックの真似はしようという気持ちになったけど情念の真似はできなかったからかなあ。

うしお 
情念はじぶんで持ってくるしかないですもんね。『海蛇と珊瑚』、作者の代表歌になりそうな強さの名歌の含有量が多すぎるのもすごいと思うんですが、嘲笑的なっていうのか、わざとふざけていく、何ていうのかな、きたないとされている言葉を使っていくタイプの歌もあるじゃないですか。それが両方あるのがいいと思っていて。

たじま 
わかる。〈「冬の鷺」とかいふ塔の受賞作、旧かな間違ひ多くつてGood(グー)〉とかね!
「冬の鷺」が歌集前半でハイパー名歌の連作として入ってて、それでこれもちゃんと自分で言ってるのがね、いいよね。「適当な世界の適当なわたし」だいすき……。

うしお 
わかる、好き。
〈籔内さんか藪内さんかわからない、だからきたなく書く練習を〉
〈廣野翔一で合つてたつけなあ薔薇と憂鬱はかけるんだけど〉
〈音楽をききながらヒューと書き上げた連作をみんな ほめる ほめる〉

とか、短歌や和歌的なこれまでのザ・名歌を体現しに行ったあとで、これを言えるのというのが

たじま
諧謔的!っていうんじゃないでしょうか。語彙を思い出しました。

うしお
諧謔!それ!! 王道のザ・名歌だけでもすごかったかもしれないけど、こういう歌たちが入ることで、おまえらはザ・名歌がすきなんでしょ、みたいなニヒルさが出るよね。

たじま 
ザ・名歌は、見たてや比喩の使い方とか、真似できるところがあり、真似できるっていうことは、文体やレトリックよりもその内容である情念が藪内さんの短歌の独自性になるんだろうけど、「適当な世界」みたいな歌があることで、ザ・名歌が担ってきたような「短歌の重厚な歴史」みたいなものとは別の軸もまた同じ歌集のなかにひとつに収まっている、その複雑さがいいんだと思う。

うしお 
うん、うんうん。

たじま 
〈わたくしのハイパー名歌がけなされてあなたの駄歌がほめられて、夏〉とかね。だから、永田さんの解説で「いい作品と失敗作の差が大きすぎる」ってあったけど、それがどこを言ってるのかあんまりわからなかったし、引用してるのはハイパー名歌系のやつが多いから、もし「適当な」のような歌のことを言っているとしたら、「それは別の見方もできるんじゃないですか?」という話を批評会で聞きたかったですね。架空の批評会で出たはずの発言。

うしお 
わたしもそこ、どの歌を指してるのかなかったんですよね。そりゃああんまり分かんなかった歌がないわけじゃないけど、失敗作って見てわかるようなやつあったかなあ。はあ~批評会行きたいよよ。他の人がどういう読みをしているのか知りたい、ていうか他の人が「私のレッスン」をどう読んでるのか気になりすぎるんですが。

たじま 
そう、それ!!「私のレッスン」、めちゃいいんですが、きょうたんじゃないひとはあれをどう思ってるんですか?
読んでてびっくりしたよ。うしおさんはちょうどあれを見てたんですっけ?

うしお 
いや、ほんとにそうですよ。必要だと思うので解説しますが、あれは京大短歌会の追い出し歌会のときの藪内さんの詠草で、いや、そもそも追い出し歌会というのは会員がサークルから卒業するときに、ほかの会員たちに宛てて作った歌を持ち寄って歌会をするというイベントで、送り出す方の会員は会員で卒業する先輩方に歌を作るんですが。

たじま 
そう、追い出し歌会も大学生のサークルであるきょうたんの外から見れば知らない文化なんですよね。

うしお 
うわさによると過去には卒業をテーマに歌を一首作るぐらいのパターンもあったのがだんだん拡大した?ということも聞きましたが、 会員の歌の本歌取り、名前の折句や文体の真似、共通の思い出を前提とした歌もたくさん出されて、ふつうの歌会とはちょっと違う感じのイベントなんですよね。

たじま 
サークル会員同士でのさまざまな思い入れがあるので、卒業式みたいになってるんですよね。 

うしお 
いやでも藪内さんのこの詠草が来たときは、やばいのが来た!って思いましたけどね。ふつう、○○さんへって詞書があって一首っていう感じの詠草になるんですけど……

たじま 
うん、というか「私のレッスン」は藪内さん卒業のときの追い出し歌会の連作だったんですよね?

うしお 
そうなんです。

たじま 
追い出しで、かつこれ吟行のときの歌も入ってる?

うしお 
はい。この連作って、だいたいの歌に会員の名前が折句や物の名で入ってるし、たぶん学生短歌合宿で吟行してたときの話なんですよね。なんか、そのころ藪内さんが足をけがしてるって言ってはったような記憶もおぼろげにある。

たじま 
学生短歌合宿も説明がいるか。まあ、学生短歌会の合同合宿で、いまも京大短歌と早稲田短歌とが春と夏に交代で主催をやってるやつですね。京都と東京に交代で集まるやつ。それの京都ってことは、春休みの合宿だから梅とか咲いてるんですね。

うしお 
えーっとね、わたしは天才なので、探したらたぶん詠草とか出てくるんですが……

たじま 
おっ! わたしはうしおさんより学年がひとつ下なので、ちょうどそのことを知らないんですよ。いいなあ。

うしお 
あった!「2014/3/21(金)京大短歌追い出し歌会」

たじま 
天才!!!

うしお 
ていうか合宿のしおりも見つけました。学生短歌会合同合宿2014春!(3/17-3/19)
藪内さんが参加されたのは北村ちゃんの隋心院コースですね。いいなあ、わたしは南禅寺に行ったので、このコースのことは知らないんです。梅を見たって聞きました。

たじま 
えっものもちが良すぎる!!!天才!?!?!? 当時の記憶だ〜。

うしお 
なんか、短歌まわりの紙をてきとうなファイルに入れて、ファイルがパンパンになったらファイル立てに置くんです。するとざっくり時系列になります。

たじま 
なるほどね。まあ私もとりあえずファイルにいれてます。
「私のレッスン」、私は「西野つかさ」で、あっ、きょうたんの話だ!ってなった。というのも、私が入会したころくらいに、阿波野さんが西野つかさだったという話を聞いてたんですよ

うしお 
西野つかさ」で阿波野さんできょうたんの話だってなったっていうのも解説要るんじゃないですか?

たじま 
阿波野さんがTwitterで「西野つかさ」っていうユーザー名で短歌の話をしていたんですよね、たしか。

うしお 
そうですそうです。

たじま 
私は直接の稼働をあんまり目撃してないくらいの時期でしたが……。
西野つかさ」の歌できょうたんだ!ってなって、よく見たら「阿波野巧也」の折句になっているので、あれ、追いコンのときの連作かな、と思って、それで読んでいくと、先輩たちの名前が折句されていたので、なるほど〜〜ってなったんですよね。
よく読むと、先輩たちのあだ名や、聞いたことのある話とか、あの人といえばっていう単語が入っていて、きょうたんのときの歌をこうやって歌集に入れてくれることがすごく嬉しくなりました。重なっていたの、いいなあってなりましたよ。

うしお 
追いコンだと気づいたのすごいですねっていうか、追いコンだと思わない人はどう読んだんだ?っていうか。
この連作がこの世界に存在することにはほんとうに感謝したいんですが、みんなどう思って読んでるのかなあって。

たじま 
そう、「私のレッスン」が追い出し歌会だとわかるひとの方がこの世界ではとても少ない。
でも、この私たちのいた場所である京大短歌での思い出を、藪内さんが自分の歌集のなかに納めて世に出したことが嬉しいんですよ。
「私のレッスン」、いろんなネタがあるんですけど、インターネットに言える話ありますか。まあ言わなくてもいいんですけど

うしお 
西野つかさ以外にも、当時のツイッターでの話題とかアイコンがこれだったとか、そういう細かいモチーフがいっぱいあって、私もきっと知らないこと覚えてないこともありますが、「日本には…」で阿波野さんの名前だーってのもツイッターだった気がするし、「ゆ」が魚みたいだって言ったのは笠木さんだったし、北村ちゃんはぴょんすだったし、なんかあらゆる箇所からいろんな思い出が喚起されるんですよ。(わたしの筆名の折句はありません、そのときわたしは筆名をかんがえていなかったので)
わたしは作品を読むということを、言語表現があって、それを見た読者の頭の中に(もともと読者の頭の中にあったものと合わさって)何かが起こる、みたいな枠組みでとらえているのですが、藪内さんのこの連作は私の頭の中にはものすごくたくさんのことを起こしてくれるテキストで、なのでこのような連作がこの世界に存在してくれることに感謝したいという気持ちになるわけですが、それはさておきほかの人はどう読んだんですかね?ということは気になりますね。
永田さんの言う「失敗作」がこれだった可能性もあるとは思いますし。

たじま 
うん、「私のレッスン」も、わたしたちが同じサークルだったので、歌に描かれている人物のことも直接親しくしていたひとびととして実体を伴っていろんな感情をよびおこしますよね。
追い出し歌会の連作は、ほかのものもそうですけど、やっぱりその思い出の力があるので、思い出やそのひとたちのことを知っている身としては胸に迫ってくるものがある。
卒業して歌を作る側としても、サークルに残っているひとたちへの餞の気持ちをこめているし、普段の歌とちがったエモーショナルなことをするときがあって、それはそれで、自分の感情とか思い出を相手に伝えるために歌にすることで、思い出を共有していないひとにも通ずる名歌になるときもありますよね。
「私のレッスン」に戻りますけど、思い出ブースト(私は直接関わっていないので、余計に先輩方のさまざまな思い出の気配だけを感じているんですが)があるから「私のレッスン」にぐっとくるという側面も否定できないけど、でも、この詞書やルビでひとつの言葉の多重な意味をひっぱってきて、誰かに向けたなにかしらのはなむけのきもちが語られるのは、おもしろいんじゃないかなあ。「梅」と「産め」とか好き。

うしお 
このルビのリフレインとかは面白くなってきちゃいますよね。追いコンの詠草の最後には、文体は吉増剛造さんから勝手に貸してもらいました……とあります。なんだか吉増剛造を読んでみたくなってきましたね。

たじま 
ルビのリフレインがずっと底流で続きながら、たまに「今のは嘘でした」とかちょっと笑っちゃう感じのことも入ってくるの。

うしお 
言語という単線的な表現形式の上に、ルビとかカッコ書きとかで連想的に別の要素がどんどん投げ込まれていくの、思い出の連作としてすごくいいなって思うんですよ、この連作を思い出から読める一握りの読者としては。
詞書や歌を読みながら、それはそれとしてどんどん人や出来事についての記憶が喚起されては流れていくっていうか。

たじま 
詞書と歌との重なりが、思い出の連想と構造として似てきているっていう感じかな。
ルビについていうと、「私」に「死」ってルビがついてるのがやっぱり凄みという感じがする。
藪内さんの短歌って、わたくしと死が隣接するものとしてある詩のような気がしていて、まさにその通りのことが冒頭に書いてるんですよね。「これは私のレッスンです。これは死のフィクションです。これは詩のレクイエムです。」(これこそもしかしたらなにかのオマージュかもだけど)って。
ここに書いてあるのはわたくしのことであり、そのわたくしには常に死が隣にあり、それは詩においてもしかしたら語ることができるかもしれない、きっと不可能だけど、という感覚。
「私のレッスン」って、タイトルがもう思い出の話をしますよ、私的な話ですよ、「はじめましょう私たちの私後の世界を」って言ってくれてるんですよね。

うしお 
あーーっ、「私のレッスン」ってそういうことか。いや、わたしは最初から読める側だったから私的っていうのを忘れていた。
死・詩とか、掛詞は歌集でも結構行われてるよね。

たじま 
そうですね。詩/死って、本気のことなんだなあと思うというか。死によって生が面前に現れてくる、わたくしの生を考えるには死があるっていうのは、そうですよね。
「詩歌とはもはや死を語るための詐術の一種に他ならない」って「霊喰ヒM」の短歌のあとの詞書で書いてあって、そういうことが「私のレッスン」のルビ「私/死」なんだろうな。「死」との隣接に向き合うことは、神や自由意志について考えることと同じくらい芸術のテーマですよね。短歌は詩なので。

うしお 
現実レベルでも、詩的題材レベルでも、死についてたくさん言われていますよね。死もそうですし、花や雪(行き)とか、題材や語彙はかなり王道。いや、さっきから「王道」って言ってきましたけど、この王道ってどちらかといえば現代短歌の王道じゃなくて和歌性ですよね。「私のレッスン」、見た目にはすごく実験的なことが起きてるように見えますけど、ルビで同音異議語を付していくのは掛詞に通ずるものがあるし、案外和歌的なものとも調和があるなあって。

たじま 
藪内さんって和歌の話もしてましたよね。京大短歌の会誌で。私は和歌を通っていないので、和歌イメージがかなり雑なんですが。

うしお 
19号で和歌の特集をしていた時の「金星手紙拾遺」ですね。藪内さんだけではなく、安達さんも笠木さんもよく和歌を読まれていた気がするのですが、わたしも和歌のことはぜんぜん知らないで申し上げております。

たじま 
先輩たちが和歌のことも触れているのを見て、私もおおきくなったらいつか和歌の勉強をしなきゃなあ、と漠然と思っていたんですが、結局していないのでなんだったんだろな。

うしお 
「おおきくなったら」

たじま 
おおきくなったら先輩たちみたいにいっぱい短歌の話をできるようになるんだろうな、という思いもありましたが……。
おおきくなっちゃったよ。

うしお 
わかる、わかりますけど。結局できずにおおきくなっちゃいましたね。短歌のはなしはいま一応やっていますが。

たじま 
「金星手紙拾遺」をいま取り出してきたら、見つけた「手紙」の引用として

わたしは短歌をやっています、と言うときに、(和歌ではないけどね)という注をはさみこむの、もう、やめませんか。この花は昔からデンファレって言われ続けてきて、そのたびに紅い花を咲かせてきたんだろうけれど、そういう伝統をいっしんに背負いながら、同時に〈わたし自身〉として咲いているんだよ。しかもそれは全力だ。失恋した人がからだじゅうのすべてから涙をしぼり流すように、〈わたし〉全体として花は、球根から、茎から、根から、すべてをしぼりきって咲いている。

って、(和歌ではないけどね)を怒られてひえ〜〜んでした。藪内さんは和歌の流れも汲んでいるところがあるんだろうな、とはすごく思います。

うしお 
わかります。でも藪内さんが汲んでいるものの話をするならまずは岡井隆を避けて通ることはできず、そういうことも含めて批評会で聞きたかったよう、と思いますね。総合誌探せば何か評も出てますかねえ。

たじま 
そうなんですよね。 岡井隆『鉄の蜜蜂』の装丁と『海蛇と珊瑚』似ててたまに間違える。

うしお 
話がずれるんですが、和歌っていうのと関連したことでちょっと。
さいきん石牟礼道子を読んでいて、読んでいるとは言えないほどしか進んでないんですが、池澤夏樹の日本文学全集の最初のところ。苦海浄土もすごかったんですが、椿の海の記、最初の30ページぐらいずっと、少女のみっちゃんが動き回って眺める山と海(と彼女の家族・共同体)の話をしていて、なんかもうどうしようって感じに文章がすごいんですよ。昔は世界が自然にあふれて心が豊かだったのに現代の都市生活/若者ときたら、っていう論調は、はじめからそんなものを知らなかった人間としては知らんがなという態度でやっていきたいのですが、なんか、石牟礼道子を読むとそういうこと言いたくなるひとの気持ちもわかるかもしれないって思う。

たじま 
豊かさを感じるわけですか。

うしお 
そうなの。和文脈の文章なのかなあ、とも思い、いや、わたしが各種文章を知らなさすぎるため雑な認識でしかないんですけど、あらゆる言語資産とかつて存在した生活の細部が投入されている感じがして。

たじま 
古文かあ。和文脈って、漢文脈と和文脈の和?

うしお 
うーん、適当に言ったので自分でも分かりません、とりあえず口語都市詠とは対極のなにかしらと言いますか、、、
わたしはこれからとても石牟礼道子を好きになる気がしているけれど、めくりつつ、今まで自分がこの手の文章にぜんぜん行き当たったことがなかった(行き当たっても適切に読み取る能力がなかった)なあってことを考えるんですよ。

たじま 
ふんわりだった。そうですね、私はまだ出会っていないので、そんなにすごいなら読む気になってきました。

うしお 
いまだともう文語で写生の歌ってだけで、伝統を受け継いでますねって感じがするけど、それっていまだからそう思われるってだけのことで、近代短歌って、和歌の文脈みたいなものを切り捨てて作ったほんとうに新しい詩だったんだろうなあって考えたりしました。

たじま 
近代ですもんね。つくらえたものとしての文体……。
われわれも和歌の勉強をしていくのがいいのかもな、もうおおきくなったんだし、というところでしょうか。

うしお 
そうですね、そういう過去の言語資産に興味が出てきました。
もう遅いので今日はここまでですね。

たじま 
はい。それではまた。お疲れ様でした。

うしお 
お疲れさまでした。

 

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